「偽善的に生きる」ということ。 - 2003年12月30日(火) 個人WEBサイト文化研究所・主任私記〜「イラク戦争とイラン大地震で気付いた面白いこと」を読んで。 確かに、今回のイラン大地震について取り上げられたテキストというのは、イラク戦争のときに比べたら、はるかに少ない感じがします。 でも、僕の実感としては、「被害者がかわいそう」としかコメントのしようがないのですよね、こういった天災については。現地も混乱していて、日本にもたらされる情報も少ないということもあるのでしょうし。 そういう意味では、僕を含めて、あれだけマスコミ批判をしていながらも、結局僕らの判断基準はマスコミの掌中にとって規定されている、といえるのでしょう。 「中東の人間が何人死のうが実のところは関心はなかった」なんて煽りに素直に乗ってしまうのはどうかとも思うのですが、確かに、「命の重さは全部同じ」で「地球より重い」かどうかと言われると、実感として「そうではない」と僕も思います。 たとえば、100歳近くで老衰で亡くなった高齢者の死に対する周囲の人々の感慨と、小学生の女の子が急病で亡くなった場合に周囲が抱く悼みとは、明らかに質が違いますから。 ところで、僕がこの文章を読んでいちばん思ったのは「偽善」とは何か?ということなのです。 おそらく、この世の「善」にはすべて、「偽善的な要素」が含まれています。 孟子は「惻隠の情」という言葉で「誰も見ていないところで溺れそうな見ず知らずの子供を助けるという人間の本性=性善説」を説きましたが、それだって「自分の目の前で誰かが死ぬのをみたくない」という、自分のための「偽善」であると言えなくもないわけで。 人々が、すべての自分の中の善なるものを「偽善」と認識することに、どのくらいの意味があるのでしょうか? それによって、謙虚な気持ちにはなれるのかもしれませんが、明日の食料に困っていれば、それが偽善であろうがなかろうが、「援助してもらう」という行為に価値を見出すのが当然なはずです。 「何もしない善」より、「実効のある偽善」のほうが、意味がある場合だってあるのではないでしょうか? 僕は、「それは偽善だ」なんて考えて、何事にも思考停止してしまうよりも、「偽善」でも何でも、困っている人を助けようという気持ちや無益な争いを止めようという気持ち、他人が死に対して悲しく思う気持ちを大事にしていくべきだと考えています。 「そんな偽善的なことはしない」といって募金箱の横を通り過ぎていくよりも、「その場だけでの感傷でも、お金を入れてくれる人のほうが、やはり「善」だし、「戦争なんてなくならない」と悟るよりも、「戦争反対」を小さな声でも叫ぶ人のほうが「善」だと思うからです。 僕はもっとみんな、「偽善的に生きる」べきだと思う。 人間に「本性」なんてものがないのなら、「偽悪的」であるより、誰にもわからないくらい、徹底的に偽善的に生きる人が増えてもらいたいのです。 意識的であるなしにかかわらず、偽善的な行動を続けるというのは、実は「善」への最短距離なのではないかなあ、って。 「根はいい人」なんて言うけど、現実的には誰かの「根」の部分まで評価するほど、みんなヒマじゃないしね。 もっとも、自分で「善いこと」をしていると認識してやる行為ほど、怖いものはこの世にないわけなのですが。 世界の歴史に残るような「蛮行」(アウシュヴィッツや十字軍)は、当事者にとっては「善行」であったわけですから。 今回のイラン大地震で、僕はひとつ痛感したことがありました。 それは、「アメリカ」という国の懐の深さ。 アメリカは、今回の大地震に対し、長年敵対しており、国交がないにもかかわらず、即座にイランに人道的援助を申し出ました。 これは、「アメリカの偽善」なのかもしれません。 でも、アメリカという国は、こういう場合に、過去の遺恨にこだわらずに手を差し伸べるという「リーダーとしての矜持」を持っているのだなあ、と思うのです。 あの国は「偉そうにしているだけの責任感と行動力を持っている国」であることだけは、間違いないこと。 その「行動力が」常に正しい方向に発揮されてはいないとしても。 ...
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