「自殺する権利」についての考察 - 2003年11月27日(木) 『憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記』〜「自殺する権利は認められないのか」を読んで。 最初に断っておきますが、Yasさんは、僕も「病に苦しむ高齢者の自殺」について書かれています。そして、僕がこれから書こうというのは、必ずしも「病に苦しむ高齢者」に限定しません。 もっとも、そうすると話はどんどん抽象的で、ややこしくなってしまうのですが。 最初に結論を書いてしまうと、「自殺する権利はある」と僕は考えています。 というより、「本当に死にたいという意志があって、自分でその能力がある(例えばロープを結べるとか、手首を動脈まで切れるとか)という人は、権利があろうがなかろうが自殺してしまう」というのが現実でしょう。 多くの場合、自殺しようという精神状態そのものがすでに常軌を逸しているものですから、一部の宗教的な観念に強く束縛されている人々を除けば、「権利の有無なんて、関係ない」はずです。 仮に「権利がない」ということに対して罪に問われたとしても、当人にとっては「死んでしまえばどうしようもない」でしょうから。 しかし「自殺する権利」がある一方で、「自殺をさせない権利」というのもあるのではないかなあ、と僕は思っています。 「自殺」というのは、本人だけの問題ではないのだから。 例えば、「自殺するためにビルから飛び降りて、関係ない通行人を巻き添えにする」というような死に方でも、「自殺する権利があるんだから、いいじゃないか!」と主張できるでしょうか? 大部分の人は、「そんな迷惑なことするな!」と思いますよね、きっと。 上に挙げたのは極端な例かもしれませんが「誰かが自殺する」というのは、単に、「ひとりの人間がいなくなる」ということではないのです。 その「自殺した人間」は死んでしまってスッキリするのかもしれませんが、周りの人間はそうはいきません。 みんながみんな「アイツは弱いから自殺した」なんて割り切れる人間ならいいのかもしれませんが、多くの関係者は「どうして自殺してしまったのだろう?」「自分にできることは、何かなかったのだろうか?」「あのとき、ああしていれば…」と悩むことになるでしょう。 そして、その問いには答えがないのです。 答えを出してくれるはずの人は、もうこの世にいないわけですから。 「身内や知り合いに自殺されてしまう」というのは、かなり大きな心の傷になるものです。 そしてそれは、「その人が自殺した理由」というのが理解困難であるほど、大きくなっていきます。 「末期癌に対する安楽死」などというのは、客観的にみると「死ぬ理由」というのが比較的クリアカットなはずなのに、まだ人類としては、「それが妥当な選択肢である」という結論には達していないのですから、若者の「悩みによる死」というのが、いかに周囲の人々の心の重石になるかというのは、想像に難くないと思うのです。 生きている人は、これからも生きて、悩んでいかなければならないのですから。 ということで、僕は「自殺する権利はある」とは思いますが、今のところは、「自殺を許さない権利」のほうが「自殺権」より優位であると考えています。 実際、「安楽死」とか言うけど、それを仕事としてやらされるのは、医者だってみんなイヤに決まってますし、家族だってそのボタンを押したくはないはずです。 将来的に、「それは罪ではない」という共通認識が確立されれば、たぶん、それはひとつの選択肢になりうるとは思うのですが。 「後に残る者のために、キツイかもしれないけど生きてくれ」というのは、ある意味残酷なのかもしれません。 でも、やっぱり自殺されるとイヤなんだよ… 僕の先輩は、外来で診ていた患者さんが自殺してしまったときのことを「絶対に忘れられない」と言っていました。その先生の治療とその患者さんの自殺の理由には、何の因果関係もなかったのに、です。 人間には、「自分を不幸にするもの」を拒絶する権利があるはず。 実際は、大部分の人間は、「自殺する権利があろうがなかろうが、ギリギリまで生に執着する」ものですしね。 ...
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