「必然性があれば、脱ぎます!」の「必然性」の謎。 - 2003年09月16日(火) 女優・池脇千鶴さんが脱ぐ!ということが、ちょっとした話題になっている。 今秋公開予定の映画で、正真正銘の上半身ヌード・乳首あり(男はよく、「初ヌード!」とか言って、背中だけしか見えないような写真に騙されるのだ。しかも、一度や二度じゃなく)。 既報によると「この作品の中で必然性を感じたので」脱いだ、ということになっているのだが、僕はかねがね、この「必然性があれば、脱ぎます!」の「必然性」というやつを疑問に思っていたのだ。 アダルトビデオみたいに、なんだかわからんけど、とにかく裸になる、みたいなのは厭、というニュアンスは理解できるのだが、「ヌードが必然的な状況」というのは、果たしていかなる状況なんだろうか? 人間が裸になる「必然的な」状況としては、まず、風呂に入るときだろう。しかし、唐突に登場人物が風呂に入っているのも、なんだかヘンな感じだが。 そういえば、高岡早紀がお岩さんの役をやっていた映画で、風呂に入っているシーンでヌードになっていたが、ああいうのは、「風呂に入る必然性」というよりは、観客サービスの要素が強いのではないだろうか。サービスカット!みたいな。 それ以外では、やっぱりセックス・シーンということになるだろう。 あれは、まあ普通の人間は裸でするものだ。 しかし、よくよく考えてみると、性行為のシーンが「必然的」に存在する映画なんていうのは、そんなにないような気もする。けっこう、唐突なサービスシーン的なものが多いのではないだろうか。 僕の記憶のなかで、「必然性」を感じたものといえば、邦画では「失楽園」、洋画では「氷の微笑」くらいのものだ。 まあ、これらは作品としての「必然性」というよりは、そういうエロチックなシーンを見せるための映画という感じでもあったのだけれど。 だいたい、乳首が見えたから文芸的とか、より芸術的なんて、観客の男の大部分は感じるわけもなく、「あっ、出た!」「もう終わり?」「意外と胸ないなあ」とか、物語の本質に関係ないところに、そのヌードシーンのおかげで、彼らの(僕も含めて、ですね)意識はとんでしまうのだ(ファンは、千鶴ちゃんがんばったね、くらいは思うかもしれないが)。 で、終わってみると「ヌードのところしか覚えていない」という状況だったりする。 実際には、池脇千鶴のヌードというのに、「作品としての必然性」がどの程度あるのかは疑問なところだ。 しかしながら、こういう「売り」がないと、地味な日本の文芸映画が興行的に難しいというのも、また現実なのだ。 僕と同じ世代の人(30歳前後)ならば、あの南野陽子が「寒椿」でヌードになったときのことを記憶されている方も多いのではないだろうか? あのときも、「あのナンノがヌードなんて!」とファンはみんな驚愕していたものだった。彼女としては、女優として生き残るために戦略だったみたいだけれど、結果として、それが彼女の女優生命にどんな影響を与えたかはなんともいえない。 少なくとも、「気合を見せた」というくらいの効果はあったかもしれないが。 それにしても、「寒椿」がどんな話かは覚えていなくても、南野陽子がヌードになった映画だということは、みんな覚えている。そして、地味な文芸映画「寒椿」は、本来なら見向きもしない層の客を呼び、それなりにヒットしたのだ。 別に、乳首が出ても出なくても、作品的に大きな変化はないだろう。 乳首が出たから、主人公の気持ちがより伝わってくる、なんてことはありえない。 逆に、見せない場合に、「そのシーツのかぶさり方はおかしいだろ!」と思うことはあるけれど。 この「作品」にとっては、むしろ、ヌードシーンばかり強調されるのは、マイナスかもしれない。 しかし、映画の興行的な面と行き詰まり気味の池脇さんの「脱皮」のためには、「必然性」があるのだと思う。 それにしても、これだけヌードが氾濫している御時世では、「露骨に必然性の感じられるヌード」なんて、誰もありがたがりはしないのではないだろうか? 「まあ、落ち目だしね」とか「イメージチェンジじゃない」とか言われてからでは、もう遅いのだろう。 そういう意味では、菅野美穂のヌード写真集は最強だったような気がする。 みんな「なんで脱いだんだろう?」「事務所に強要されたんじゃないか?」とか勘繰りながら、争って、その写真集を買い求めていたわけだからねえ。 あの、正直言って、僕はちょっと悲しいのです。 そんな「作品としての必然性」なんて、思い込みなんだって、千鶴ちゃん。 騙されてるんじゃないかなあ… でも、そんなふうに僕らに思わせてしまうようなヌードじゃないと、興行的には意味ないんだよね、きっと。 ...
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