「感情」と「理性」は、相反するものだと誤解している人々へ。 - 2003年07月12日(土) Mr.Childrenの名曲「イノセント・ワールド」に、 ♪さまざまな角度から 物事を見ていたら 自分を見失ってた という1節がある。 僕がこの曲をはじめて聴いたとき、もっとも心に残ったのは、このフレーズなのだ。 僕は、20歳くらいまで、なんでも物事を冷静に公平に、客観的にみていこうと努めていた。「公平」で「平等」だあることは、何より正しいと思っていた。 でも、最近つくづく思う。 人間は、完璧に冷静で客観的になんて、なりようがない。 物事はすべて、僕が僕であるかぎり、僕という人間を通してしか認識されないものなのだ。 「感情論」なんて、バカバカしい、とあなたは思うかもしれない。 そんなのは、ワイドショーのコメンテーターや井戸端会議のオバチャンたちに任せておけばいい、って。 僕も高校生くらいのころは、そう思ってたさ。 でも、「法律」とか「秩序」なんてものは、天から降ってきたものでも、地から湧いて出てきたものでもない。 たくさんの人間の感情が、歴史によって積み重なり、人間がより安全に生きやすくなるために、「法律」として具現化されたものなんだ。 もちろん、「法律」になってしまえば、それを構成している『感情』という細胞は、識別することはできないけれど。 「感情論なんて、バカバカしい」と言うのは、「水蒸気は、雨とは関係ない」ということだと、僕は思う。 だいたい「過剰な感情論は危険だ」という発想だって、そういう「感情の洪水」に溺れて苦しんだ、先人たちの「経験」の蓄積に過ぎない。 でも、この世には、他人の注意を引くための、偽の「感情」や「理性」が多すぎるんじゃないかな。 「感情」と「理性」は相反するものじゃない。 完璧な「理性」なんて、存在するわけがない。 もし、そんなものが存在するなんて思える人間は、とても「感情的」なのではないか。 僕は、好きなものは「好き」、嫌いなものは「嫌い」(これは敢えて書く必要もないんで、黙ってるかもしれないが)、正しいと思ったことは「正しい」、間違っていると思ったことは「間違っている」と書く。 そして、わからないことは、「わからない」と書いていきたい。 ...
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