「コルク入りバット」が曝け出す「記録」の矛盾。 - 2003年06月07日(土) ソーサのコルク入りバットについて考えた。 確かに、スポーツマンシップに反する行為、ではある。 「飛ぶバット」なんだからさ。 しかし、その一方で、スポーツの歴史というのは、道具の歴史でもあるのだ。 近代のトレーニング理論の進歩が、競技記録に反映されているところもあるのだろうけれど、「道具の力」によって記録が進歩しているというのは、間違いのないことだと思うのだ。 今の陸上100mの世界記録保持者が、50年前の記録保持者と同じシューズで世界記録を出せるか?と問われたら、自信を持って「イエス」と言える人は少ないんじゃないかな。 その選手、もしくは国によって、明らかに道具の違いというのは存在する。もちろんそれは、「現行のルールの範囲内」ではあるのだが。 でも、本当に公平な勝負をするのであれば、素っ裸で、みんな同じ道具でやらないといけないような気もするんだよなあ。 一時期、競泳でも「速く泳げる水着」なんてのもあったけど。 しかし、野球の場合だと、バットの長さ、重さだけでもそれぞれの身長や好みによって違うわけで、「同じ道具」ってわけにもいかないし。 バットといえば、一昔前は、日本でも、ボールが良く飛ぶ「圧縮バット」というのが、一般的に使われていた。「飛ぶボール」なんてのも使われていたらしい。 そう考えたら、スポーツの記録なんてものをどの時代も同じように扱うこと自体が矛盾なのだが。 結局、ルールがある限り、そのルールの限界のところまで競技者たちはいってしまう。 禁止薬物でなければ、筋肉増強剤を使ってもいい、というところまで、逆に追い詰められてしまう。 もちろん、それができるのは、ごく一部の「富める競技者」だけなのだが。 ソーサの「コルク入りバット」だって、自分でコルク詰めてつくったわけじゃないだろうしね。 「公平なルール」を標榜しながら、実際は公平じゃない。そんな矛盾について考えてしまう事件だった。 いっそのこと、どんな道具や汚い手段を使ってもいい、薬漬けOK、改造人間アリとかで人類の限界に挑戦する「ドーピンピック」とかやってみたらどうだろうか? 「チキチキマシン猛レース」とか「キャノンボール」みたいで、けっこう面白いと思うんだけどなあ。見てる側としては、ですが。 あっ、でも、ジョイボールはナシね! ...
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