マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

永遠の「小郡駅」 - 2003年04月18日(金)

共同通信のこんな記事を見た。

【山口県小郡町のJR小郡駅に新幹線のぞみの停車を実現するため、同町は18日までに、JR西日本から提案のあった駅名変更を了承することを決めた。
 県などによると、JR西日本が4月初め、10月のダイヤ改正に向け、のぞみの小郡駅停車について県と協議する中で、駅名を「新山口」などと変更することを提案。県は地元に意見を求めていた。
 同町の岩城精二町長は17日開かれた町議会の全員協議会で「承諾したい」と表明。議員の一部からは「話が急すぎる」「小郡の駅名に愛着のある住民もいる」との意見もあったが、多くの議員は「のぞみがとまるチャンスなら」と賛成した。】

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 そんなに「のぞみ」に停まってほしいのかね?と思ってみたり。
 だいたい、せっかくの「のぞみ」もやたらと停車駅が多くなったら、そのメリットは低下してしまうわけで。
 たとえば一般道路よりも高速道路のほうが目的地に早く着けるのは、もちろんスピードが出せるとか、渋滞がない(もちろん、これのメリットを享受できない幹線もある)のはもちろんなのだが、「信号で停まらなくていい」というのは、けっこう大きなファクターなのだ。
 「車は急に停まれない」し「急に加速できない」のは、F1のピットワークなどを見ても判る通りで。
 
 まあ、それは別にいいのだが、僕がこの話を聞いて思ったのは「小郡駅を無くすな!」ということなのだ。だいたい、のぞみの停車駅に、駅名がどうしてそんなに関係あるのだ。

 どうして僕が小郡の人間でもないのに、「小郡駅」にそんなにこだわるかというと、この駅にはひとつ思い出があるからだ。
 もう10年近く前。僕はここにひとりの女の子を送って行った。
 彼女は大学の後輩で、ものすごく美人ではなかったのかもしれないが、びっくりするほど素直で、呆然とするほど嘘つきだった。
 僕たちは、恋をしかけていたのだと思う。
 最初は、帰省する彼女を大学の近くの駅まで送っていくつもりだったのに、僕は九州の真ん中から、山口県の真ん中くらいの小郡駅まで、彼女を送っていくことになったのだ。そのときの僕には家に帰ってもダビスタくらいしかやることがなかったし、なんだか、別れるのが嫌だったから。

 車でそうだなあ、高速にも乗って、3〜4時間くらいかかっただろうか?
 僕は、彼女の家のすぐ近くだという小郡駅で彼女を下ろし(そこに家の人が迎えに来るから、ということだったので)、なんだか舞い上がりながら、また4時間くらいかけて家に帰った。
 帰る途中、ボーっとしていて2回くらい前の車にぶつかりそうになったけど。

 あれから、彼女が戻ってくるまでは、えらく長い時間だった。
 当時は、携帯電話を学生がみんな持ち歩くようになるなんて、夢にも思わないような時代だったしなあ。

 というわけで「小郡駅」は、僕にとって、ものすごく思い出深い駅なのだ。
 だから、「新山口駅」なんかにはなって欲しくない。
 ものすごくワガママな理由で申し訳ないけれど。

 でも、僕は思うのだ。
 よく、合併協議会などで「歴史ある地名を残そう」と言う人たちが、その地名の由緒ある由来(曰く、平安時代に有名な僧侶が…、とか、戦国武将の誰々が…)を持ち出す人たちがいるけれど、大部分の人の本音は、「自分にとって」想い出のある地名を消したくない、ということではないだろうか?
 そういうふうに思うのは、間違っているのかなあ。
 
 いやもう、「小郡駅」は、たぶん死ぬまで僕の記憶の中には、ずっと残るわけだけれど。


 

 最近5月病の前触れなのか、感傷的ですみません。


...




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