思うこと
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2008年09月10日(水) 祈るということ

>祈りが通じた。昨季もナイターで行った開幕戦、東芝−サントリーは
>当日の大雨の影響で観衆9037人と伸び悩んだ。その教訓を生かし
>各チームの開幕戦での晴天を願い、TLの稲垣純一COOが先月末に
>東京・高円寺にある日本で唯一の気象神社を参拝。お守りとお札も購
>入し、各チームの幹部にも配布した。その成果もあってか、5日は予
>報に反して雨は降らず。昨季を上回る1万4901人の観衆を集めた。

祈るというのは意味があるものなのだろうか?

時々思う。もう2ヶ月か3ヶ月くらい前になるが、映画「チベットチベット」を観た。撮影されたのは10年くらい前。チベット亡命政府所在地ダラムサラで、たくさんの人々がキャンドルに自由への祈りを託して静かに街をデモしている映像があった。そのとき俺は「少なくとも10年も前から、こんなにも大勢の人が集まって祈りをしているのに、チベットの状況は何も変わらないどころか、かえって悪化している。祈るってことは、単なる自己満足以上のものでしかないのだろうな。と。

五輪が終了してからというもの、チベット関係のイベントが途端に少なくなって、仕方なく、消去法的にフリチベサポーターは多分誰でも知っているであろう、あの寺に行った。自己満足でもいい。チベットに対して同じ思いを抱いている人と話ができるだけでもいいと思って。

で、僧侶に率直に思いをぶつけてみた。上記の「チベットチベット」の映画でのキャンドルライティングの一場面を観て感じたことを。僧侶の答えは俺が予期していないものだった。「願いや祈りなんていうものは、10年やそこらの短期間で叶うとは限らない。100年経って祈りが通じたといことがあってもいいじゃないか。」と。

そういえば、仏教にはやたらと長い時間軸が存在する。永劫と言って、56億数千万年後に今の世界が一旦消滅するだとか。(現代科学で太陽の寿命が残りおよそ50億年と言われているのと奇妙に一致するところに、偶然とは思えない何かを以前から感じてはいる。)

ともかく、五輪後、急速に人々のチベットへの関心が薄れていくのに、危機感を持ってこの文章を書いた。とりとめのない文章になってしまったが、夜遅くなってしまったのでこれで寝る。


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