蜜白玉のひとりごと
もくじかこみらい


2008年10月02日(木) 庭から学ぶこと

ぐずぐずしていた空も今朝はご機嫌。さらっと乾いた秋の空気、やっぱりこうでなくっちゃ。ああ、布団干し、衣替え、と後ろ髪をひかれながらしぶしぶ出勤。週末もこんな天気なら、大きく窓を開け放って、クローゼットとベッド下収納と押入れの中身をごっそり整理したい。その後は洗濯物の山と格闘だ。想像しただけでなんてすがすがしい心持ちだろう。

実家の畑を庭に改造中だ。家のすぐ横(というかテラスから見下ろした位置)にこれまた家1軒建つくらいの土地があり、そこを半分は畑、半分は庭として使っている。ド田舎の山奥だからこそ。植えたり育てたりするのが好きな父はあれも作るこれも作る、と移住以来いろんな種類の野菜を育てた。病気で動けなくなってからは母がそれを引き継ぎ、季節ごとに父の希望を聞いてはあれもこれもと作り続けてきた。少なめに少なめにと思ってもどうにも出来過ぎてしまい、基本は両親だけの二人暮らし、差し上げるったってそんなに相手がいない。それに野菜だってただでは育たず、収穫までにはさまざまな世話がいる。母一人には重労働で、今度の冬の収穫を最後に思い切って縮小することにした。ちなみに今育てているのは、大根2種類、ホウレンソウ、春菊、スティックブロッコリー、白菜、オクラ、ゴーヤ、トマト、ピーマン。さすがに夏野菜はそろそろ終了だ。

畑の空きスペースに父が好き勝手に植えていた花や果樹はそのままに、畑は作物がなくなった時点で庭へとシフトさせて、コテッジガーデン風にすることにした。新しい庭について母と話をしていると、母はもともとこっちがやりたかったようだ。母はとてもたくさんの花を知っている。そう言うと、お父さんほどではないよ、と謙遜する。

シモクレン、ハナミズキ、柿、あんず、梅の木はそれぞれ5年経ちずいぶん大きく育っているので動かさず、すかすかしている土の部分を少しずつ手入れしていく。庭をゆったり歩いてまわれるような小道をつくり、座って休憩できる場所も確保する。なにせ今の畑はそこそこの広さがあるはずなのになんだか窮屈で、道具を持って移動するのも一苦労なのだ。そして花エリアはどこに何が植えてあるかよくわからず、うっかり球根を踏んでしまったりする。踏んでいいところといけないところの区別がよくわからない。抜いていい草といけない草の区別もよくわからない。

庭の角には道具小屋があり、その横にはプラスチックのコンポスターが3つ置いてある。そのほかにも箱やら支柱やらごちゃごちゃ置いてある。このあたりを整理して作業場として使いやすくするのも手だ。空間を広めに取っておきたい。草取りや剪定で出た庭のごみは米ぬかと混ぜてコンポスターに入れ、自家製堆肥にしている。途中で切り返したり、思いのほか体を使う。道具の手入れをしたり、液肥や虫よけを作ったり、こういう裏方作業も庭には必要なのだ。

夏の母の入院を機に植物の世話を代わってすることになり、この場所の楽しさと大変さと抱える問題点が見えてきた気がする。そして贅沢な広さを目の前にすると、自ずとあこがれの庭への夢が膨らむ。私は母の庭づくりの良きパートナーでありたい。

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ガートルード・ジーキル著『ジーキルの美しい庭−花の庭の色彩設計』を読む。2700円と少し高いのでまずは図書館で借りてみる。カラフルな絵と写真に読みやすい文章だ。調べていくと、イギリスのコテッジガーデンの源流はこの人に行きつく。どうせやるなら(理解できるかどうかはさておき)本質を知りたい。花の種類や育て方は母からその都度習うとして、庭ってそもそもどういう意図で作るのか、私たちはそこから何をどう学ぶのか。種や苗を買ってきてそれっぽく植えりゃあいいってもんじゃなかろう。どうすれば植物にも人間にも無理のない、美しい庭が作れるのか。できることなら私はそこから考えてみたい。ジーキルは建築、絵画、詩、手芸などなど、園芸以外にもとにかく多才な人だ。イギリスの自生植物を生かした自然な庭づくりを提唱した初の女性造園家。


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