蜜白玉のひとりごと
もくじかこみらい


2008年02月07日(木) 巣鴨は毎日通過します、電車で。

伊藤比呂美著『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』を読んでいる。伊藤さんは詩人だが、エッセイなど形式を選ばずいろいろ書く。そしてとにかく私事をさらけ出して書く。家族の状況、自分の気持ち。出し惜しみはしない。はじめて読んだときには、エロいしグロいし、なんだってこんな・・・(しばし絶句)、露骨だし品がないよ、と思ったものだった。でも最後まで読んだ。読み出したら、先へ進まずにはいられなかった。今回もご多分に漏れず目一杯さらけ出されている。形式は、著者が言うには「長篇詩」だ。私には近況報告の手紙のようなエッセイに読める。

まだあと3分の1くらい残っているが、途中まで来て、これはえらいことだと思った。今だからこそ、私はここに書かれていることの意味がわかるんじゃないだろうかと。他の人たちはこれをどう読んでいるのか気になったので書評をさがすと、川上弘美さんと斎藤美奈子さんのを見つけた。

以下、斎藤美奈子さんによるアサヒ・コムの書評から抜粋

 『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』は彼女の最新の「消息」である。〈父は老いて死にかけです。/母も死にかけて寝たきりです。/夫や王子様には、もう頼れません〉という状況の中で、夫のいるカリフォルニアの自宅と父母のいる熊本とを、ときには一番下の娘を連れて、ときにはひとりで行き来する。最初の章は「伊藤日本に帰り、絶体絶命に陥る事」。介護の必要な親と世話のかかる夫と自立する前の娘を、太平洋のあっちとこっちにかかえる彼女は、そりゃもう満身創痍(まんしんそうい)である。それで巣鴨のお地蔵様にちょっと頼ってみるのである。

 〈母の苦、父の苦、夫の苦。/寂寥(せきりょう)、不安、もどかしさ。/わが身に降りかかる苦ですけれど、このごろ苦が苦じゃありません、降りかかった苦はネタになると思えばこそ、見つめることに忙しく、語ることに忙しく、語るうちに苦をわすれ、これこそ「とげ抜き」の、お地蔵様の御利益ではないか〉とか嘯(うそぶ)きつつ。

(中略)

 詩人の「消息」が読者を引きつけるのは実用的な価値があるからだ。詩なのに実用的っておかしい? だけどほんとに効くんです。

 性や出産や子の成長を描いてきた人が、50歳の坂にさしかかってぶつかる老いや病や死。四半世紀にわたる連続番組の重みがそこにある。

(抜粋ここまで)

ぶつかる老いや病や死。ぶつかる老いや病や死。まさにこれだ。今、私が直面しているものと同じだ。親の老いや病や死。引きずられ引っ張られていく。私には私の家庭があり生活があるというのに。『とげ抜き・・・』を読んでいると、一生懸命ふたをして見ないようにしているもの、もしくは何とか折り合いをつけて自分の一部に組み込んでしまおうとしているものをわざわざえぐり出して、ほら見てみ、と言われているような気持ちになる。認めざるを得ないのだ。

この本、荒治療だけれど、案外効くかもしれない。肝が据わる。仕方がないのだ。嫌でも何でも、のた打ち回るよりない。私が彼女と違うのは、出産や子の成長を経験する前に、老いや病や死の話が先に来てしまったということか。老いや病や死は、ドスンと私の前に立ちはだかっている。私と、そして夫の前にも。私たちの行く手をふさいでいるかのようにこの頃は思える。何で私ばかりがこんな目に、という気持ちがないわけでもない。でもその文句を向ける先がない。そんなのは、もともとどこにもない。行き先のない言葉はくるっとまわって、自分に突き刺さるだけだ。

病気の父が心配だ。そして父を常に看ている母のことが心配だ。毎晩遅くまで仕事をしながらも実家へ帰り、平日だけではなく休日も父の面倒をみたり母の手伝いをしている妹のことはもっと心配だ。私にできることと言えば、平日は始業前や帰宅後に母に電話をし様子を聞き励ましなぐさめ、今週末こそ実家へ行かなければと思いつめる。それなりに仕事をしている身なので、週末は平日にこなしきれない家事、食料品の買い出し、相方と過ごす時間、自分の心身のリフレッシュにあてたいけれど、それをひとまず脇へよけて実家へ行く。週末に家のことを放り出していくことの後ろめたさ、相方のつまらなさそうな顔が浮かぶ。1泊なり日帰りなりで行って帰ってくるとへとへとで、乗り換えだの待ち時間だのを入れると片道2〜3時間はやっぱり体にこたえる。一方で、こんな短い時間だけ実家に行って何の意味があるんだろうか、少しは父や母の役に立っているんだろうかと疑問に思う。あっちもこっちもまるで達成感がない。ただ体だけが疲れ、気も休まらず、そうして休日はあっという間に過ぎていき、またいつもと同じスピードで月曜日からはじまる。それならば、と実家に行かない週末を作る。でもどことなく気もそぞろ。つらい、苦しい、さみしい。ああ、父が、母が、妹が。でも、でも、でも。

この繰り返しだ。どっちにしろつらいのだ。この生活に展望も何もないだろう。私は相方と仲良く力を合わせて暮らしていくことと、小さな妹の幸せを望む。老いや病や死を私が食い止めることはできない。ただ頭を垂れて受け入れるよりない。いずれ私にも等しくやってくるそれらを。


蜜白玉 |MAILHomePage