212 親切であるということ |
日本人と外国人とでは、「親切」というものの度合いが違う。その点について言えば、日本人のそれは外国人から比べるとおとなしいもんだ。 よく言うじゃない?「親切とおせっかいは紙一重」って。そういう言葉があることで、人は親切を恐れるようになっちゃってるんだと思うんだよね。もちろん、親切の裏には危険が潜んでいる場合があるから、それでっていうのもあるんだけどさ。 見知らぬ人に親切にされると、「何か裏があるんじゃないか?」って疑るだろうし、見知らぬ人に親切にしようとすると、「不振に思われたらイヤだな」とか「おせっかいかな?」って歯止めがかかっちゃう。 とある本を読んでいたときに、外国人の親切について書いてあった。それも、我々日本人からすればびっくりするような親切。テレビでドキュメンタリー番組なんかをみていてもたまに思う。むこうの人の親切は、日本人の親切の枠をはみ出している。まったく別物なんだよね。 そんな親切を受けると、むしろこっちは困ってしまう。親切なことをされたら、それに対してなにかしないといけない!っていう気持ちがあるから。見知らぬ人からの親切に、我々は慣れていないんだ。 でもそんな親切が日常的にみんなの間であるのなら、人から多大なる親切を受け、自分はまた別の人にいっぱい親切なことをする。映画「ペイ・フォワード」のように。それが循環すれば、誰もが親切なことを当たり前のようにできるようになる。 で、なんで日本人はそういうことができないのか?って言えば、それは小さい頃に親にとめられちゃうからなんだ。難しいことなんだけどね。今の社会でうまく生きていくために必要なことは、今いったようなこととは噛み合わない。残念ながら。おせっかいはやかないほうがうまく生きていける。 電車にのって席に座っていて、お年寄りが乗ってきたら席を譲りましょうとは教える。別に親切がないわけじゃない。でも、親切にはラインがひかれ、はみ出すことはとめられる。親切の延長上に「おせっかい」というものがあり、そこには目に見えない線がひっぱってある。そのことを習得することは、確かに日本では必要なことなのかもしれないけど、ちょっと悲しいことでもある。人の親切を素直に受け入れられないことは悲しいことだ。それが自分にとっては検討違いのことだったとしても。
ちょっと話がかわるけど、身体障害者の人がいたときに、子どもはなんと思うだろう? これは知人から聞いた話。母親である彼女は、娘が身体障害者の人を見たときに、その人のところにいって、 「なんでそんな風に歩いているの?どこか痛いの?」 と尋ねたとき、そんな娘をとめた。 「だめでしょ!そんなこと言って!したくてしてるんじゃないんだから、かわいそうじゃない!」 と。 娘は聞いた。「なんでかわいそうなの?」 身体障害者の人は、彼女に言った。 「子どもが示した反応が正しい。同情はされたくない。かわいそうと言われたくない。」 なんでそうなってしまったのか。疑問に思うのならば、たずねてみることのほうが、かわいそうだという視線で何も言わずに見ているよりもいいんじゃないのか。 ちょっと「親切」とはずれた話になってしまったけど、心に持つ見知らぬ人との触れ合いに対する姿勢については同じだ。 親切ということの正しい意味を、親は教えていかなければならない。日本人ははっきりと言わないことに美学をもっていると思う。はっきりと物事をいうと、ぶしつけだと思われる。でもそれって逆に誠実さに欠けるんじゃないかな? 親切の意味をもう一度確かめたい。自分の中にある先入観を、できることならとっぱらって。
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2005年03月09日(水)
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