Experiences in UK
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2003年09月15日(月) 第5週 2003.9.8-15 バス利用の流儀、ロンドン・大阪・東京

このところのロンドンは、曇天の日が多く、時折ぱらぱらと雨が降ります。いかにも英国らしい天気の日々です。ただし、比較的暖かめの日が続いており、過ごしやすい毎日です。

(バス利用の流儀)
新居に移ってからの交通手段は、バスがメインとなりました。買い物に出かけるのはバスですし、通勤も近所の停留所から会社近くの停留所までおよそ1時間バスに揺られて通っています。
ロンドンのバスは、地下鉄と同様にロンドン市民にとっての重要な交通手段となっています。バス路線は、中心部を含めたロンドン市内をくまなく網羅しており、非常に多くの本数のバスが市内を走り回っています。日本のバスが、限られた地域の一部住民の足という地位に甘んじていて、地下鉄や私鉄・JRなど鉄道と比べると公共交通機関としての地位がかなり低いのとは大きく異なるといえます。
このロンドン・バスの運行システムが非常に面白くて、その「流儀」を理解するまで少し時間がかかります。

「流儀」の一端は、以下の通りです。
まず、運賃徴収に関する流儀です。様々なタイプのバスがあるのですが、多くのバスは車掌が乗っていて、運賃徴収の役割を担っています。バスに乗り込むと、まずさっさと着席するよう促されて、しばらくすると車掌が回ってきて定期券の確認や切符の販売を行います。ところが、混んでいたり乗り降りが激しかったりした場合は、物理的に全員を回ることは不可能です(2階建てバスが一般的ですし)。したがって、確率の問題として高い確度で無賃乗車が可能です(意図せざるものも含めて)。つまり、切符を買うつもりで乗っても、車掌が回ってくるまでに目的地に到着してそのまま降りるということはよくあることだと思います(私は定期を買っていますが、車掌が見に回ってくるのは3回のうち2回くらいです)。
次に、乗り降りに関する流儀です。車掌の乗っているバスの多くは、扉がない後ろのデッキから乗り降りするタイプなのですが、停留所に着いてなくても信号待ちなどでバスが止まっているスキに乗り降りることが可能です。実際に多くの人はそうします。扉のあるタイプのバスでも、渋滞の際などには、乗客のリクエストに応じて適宜降ろしてもらえます。
乗る際の流儀として、もう一つあげられます。停留所に3台くらいのバスがダンゴになって止まっている場面にしばしば出くわしますが、その際に最後尾のバスはバス停からかなり後方で停止することになります。日本であれば、バス停の所まで順番にバスが進んできて客の乗り降りをさせると思うのですが、ロンドンで悠長に自分のバスが目の前にくるのを待っていると置いてきぼりを食らいます。最後尾のバスは、停止した地点で客の乗り降りを完了させて、即座に発進していくのです。したがって、3台目のバスに乗りたい人は、老若男女を問わず、バスが停止した段階で駆け足で目当てのバスまで向かわねばなりません。
以上はどこにも説明書きなどないので、これら流儀をマスターして快適にバスを利用できるまでしばらくの観察期間を要するというわけです。

これらの「流儀」の最大のメリットは、客の乗降による時間のロスを少なくさせることです。そのために、バス会社は完全な運賃徴収を放棄し、乗客は安全を自己責任でカバーし、ちょっとした労力の代償を支払って効率的なバスの運行システムを支えているのです。私は、その「流儀」の根底にあるのは、イギリス伝統のプラグマティズムの精神ではないかと思っています。
ところで、道路で頻繁に出現するラウンドアバウト(説明が難しいのですが、信号のいらない交差点です)にしても、ロンドンで主流の押しボタン式信号にしても、交通の流れをスムーズにするという意味では、同じく非常に有益なような気がします。押しボタン式信号の青の時間は非常に短くて、押した人がさっさと歩いてちょうど渡れるくらいの時間で赤に変わります。つまり、通行人もいないのに無駄に車をストップさせることなく、本当に必要な時間だけストップさせるという仕組みです。他方で歩行者にとっては、ボタンを押してすぐに青になるわけではないので、不便な信号です。このため、ロンドンの多くの信号は歩行者にとってあってなきがごとしで、多くの人は自分の目で交通状況を判断して道路を横断しています。保険の意味合いで押しボタン式信号のボタンを押しても、とにかく青の時間が短いので、小さい子供を連れているとダッシュさせないと危険です。青だからといって油断することはできないのです。

(ロンドン・大阪・東京)
そんな風に、ロンドンの社会では、「実」を重んじるという方針のもとに、個々人が臨機応変に物事を判断することが多く求められるように思います。一方で、日本(とくに東京)の社会は「実」よりも「形」を重んじる気がします。「形」は言葉を代えると法律とかマニュアルということであり、マニュアルにさえ沿っていれば個々人が考えたり判断したりする必要がなく、安全に暮らしていけるのが日本なのかなと思います。あくまでロンドンとの対比という意味ですが。
そして、実は、このような意味での個人の自立という点は、私がかねがね感じていた大阪と東京の違いでもあります。大阪では、個々人がその場その場で最適解を見出して行動することが、しばしば法律に優先します。最適解は単なる個人にとっての最適(わがまま)ということでは必ずしもなくて、その状況における最適解なので、互いの解が一致するというあうんの呼吸のようなものが形成されます。お上の決めたルールよりも自分(たち)のルールを重んじるという、歴史的な気風も関係あるのでしょうか。したがって、大阪で法律やマニュアル遵守だけを拠り所に行動する人は、その流儀=ノリに合わせられずに苦労し、周りの秩序も乱すことになります(以上は、とくに車を運転していて感じることです)。

というわけで、ここでもイギリスと大阪の共通項が見つかりました。ちょっと牽強付会でしょうか。なお、ロンドン・バスの「流儀」を形成する車掌付きバスについては、経営という意味では不必要な雇用を温存しているものともいえ、旧態依然や放漫財政の証左に過ぎないとの見方もあろうかと思われます。実際に、地下鉄同様、バスも来年から値上げされるとのことです。上記はあくまでも私なりの解釈ということであり、もちろん客観的なものではありません。まあ、客観的な解釈というのも、その表現自体が自己矛盾したものですが・・・。
なお、これまでイギリスと大阪の共通項として、他人へのフランクな態度、エスカレーターの左側通行、自立した個人ということをあげてきましたが、気づくのはいずれもイギリス・大阪流がグローバル・スタンダードであって、その対極の東京流が特殊だということです。偶然なのか、何か意味があるのか、それとも私の恣意的な取り上げ方によるものなのか。様々な仮説が考えられると思いますが、どうなんでしょうか。


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