文
- 椿
2004年01月30日(金)
夜露が落ちて凍りつく音の聞こえるような夜だった。 カーテンを掻きわけるようにして開いた南天の枝葉の向こう側には、飛び飛びに平らな御影石の敷かれた庭が広がっている。しんと冷たい空気の中を、いくらか小走りで渡っていく少年の顔は赤い。さきほど南天の葉の露で濡れた指の先からじんとしびれが広がる。駆けながらも周囲にちらちらと視線を巡らすものの、実のところ警戒する必要は全くない。ぽつぽつと月に照らされた白い敷石が蓮の葉のように光るこの冷たい庭は彼のものだ。 ほどなくして御影石は途切れ、硝子ばりのテラスが現れた。少年は立ち止まり、あかりの消えた暗い内部を覗く。 暗がりの向こうから、ふるりと白い影がやってくる。 少年は硝子に両手をついて、影に扉を開けるように促した。影はうなずき、扉の鍵をまわす。 かちり。 月の光の中に白い腕がさらされた。 「おかえり、ほたる」 少年は応えず、迎え入れた声の方を見ることもなく屋内に上がりこんだ。外に比べればいくらかあたたかい室内も、夜だというだけでずいぶんよそよそしい。白い服の人影は薄着をしている。それをたしかめるため振り返り、嘆息し、ようやく向きなおる。 「12月だよ、ひかり。夏着のまま寝るのもいいかげんにしたら」 「だって毛布の中は暑いもの。それよりねえ、採ってきてくれた?」 人影は少年の妹である。少年の腕に取りすがろうとした妹から身を離し、少年はうつむいて上着のポケットの中を探った。やがて開いた手のひらの中にあったのは、紅いぽったりとした花であった。
***
少年の家には人形が住んでいる。妹のお気に入りの、生きてものを食べ、動く人形である。 それは2日前の妹の誕生日に家に連れてこられた。贈り主である両親がどこから手に入れたものなのか少年も妹も知らないし、知る必要もない。重要なのは、その人形が美しく、また自分が人形として扱われることに何の不満も疑問も抱いていない「人間」だということだけである。 人形は白い髪をしていた。髪だけでなく、丸い額も指の先も、肌という肌、体毛という体毛に色味がなく、それなのに瞳だけが砂糖漬けのチェリーのように赤かった。見慣れたものではありえないその容姿で、人形は少年にあいさつをした。ただにこりと微笑んで、かすかに口を開くだけで、親愛の情を示してみせた。 妹も両親も、人形の微笑に歓声をあげた。少年だけが無言だった。無言のまま、少年は人形に手を伸ばした。 ひらり、と白い髪の一房が舞う。 「……お前、馬鹿だろう」 柔らかな巻き毛が手の中ではずみながら潰れる。家族の誰にも聞こえぬように、髪に口づけるのに隠してささやきかけた声を、理解するものはいなかった。 美しい白痴のきみ。 人形は意味を解さない。少年に向かってまた、微笑んだ。
***
「ねえ、白い髪によく似合うわ。ありがとう、ほたる」 テラスを抜けて階段を上り、奥へ奥へと進んだ突きあたり。兄妹の部屋の間にある小さな部屋に、その少女は住んでいる。 「礼ならその人形に言わせればいいじゃないか。別にお前のためじゃない」 妹はその兄のせりふが気に喰わなかったらしく、眉をひそめ唇をとがらせる。 「あら。じゃあこの子のためなのね。綺麗なものは綺麗と言えばいいのに」 「人形のためでもないさ。散歩のついでだ。綺麗であたりまえだろ、人形だもの」 少女は会話を残さず聴いている。時おり首をかしげる向きをゆるりと変えること以外、動きらしい動きもとらない。 妹は今度こそむっとしたように向きなおって、兄に強い口調で言った。 「人形人形って。この子は私たちの新しい妹でしょう。何度言ったらわかるの」 「何回言おうが結局伝わらないなら同じだろ」 「同じじゃないわ。言葉が伝わらなくたって……」 妹は口ごもる。兄はすでに部屋を出ていた。
言葉が伝わらなくたって。 妹の言葉に続きはどうせ無いのだ、と少年は考えた。言葉が問題なのではない。あの人形には感情がないのだ。そのことに気付いているのに、まだ見ないふりをする。 御影石も南天も眠ってしまった明け方に、少年は部屋を出た。 妹の部屋との間にある、小さな部屋。扉を開けると、小さな白い丸椅子に、白い白い、少女。ぽったりと髪に落ちた花。 「……ゆづき」 雪に落ちた椿の花。誰も知らない、少女にすらも伝わらない名前。少女はただゆらりと微笑み、少年はただうつむいた。 あわく波立つ白い髪の間を、音もなく紅がすべり落ちる。
/出題「…お前、馬鹿だろう。」「何回言おうが結局伝わらないなら同じだ」
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