つないだ手
     2004年02月27日(金)

 四歳まで、父は私の髪を他人に絶対に触らせようとしなかった。


 一ヶ月に一度、月のはじめの土曜日の午後、私と父は連れ立って出掛けていた。
 その頃に住んでいた家は、郵便局の社宅で、母と父と私の三人きりで住むにも小さすぎる、六畳一間の独身局員用の部屋だった。
 父と母が結婚してから私が生まれた後五年ほどは、週末になると電車を頼りに外出してばかりいた。
 「きれい」も「きたない」も「おもしろい」も「つまらない」も言葉で伝えることができないような幼い頃に、私は両親から、彼らの出来うる限り最大の範囲で、私がそれから生きることになった世界のいろいろを見せようとしてくれていた。


 いつも三人でいた。


 月のはじめの土曜日には、私と父だけで出掛けていた。
 家計簿を広げる母に断りを入れて、玄関を先に立った父がドアを開きながら私に手を差し伸べる。

 「おいで」

 いつも封書や葉書を扱っている父の手は、紙に色をすべて移してしまったように白く綺麗で、今のように傷だらけで節くれだってなどいなかった。


 駅まで歩く方向から、途中で狭い脇道に入る。車が通れば人は脇にも下がれないほど狭い道で、ここは危ないから、とひとりで私を通らせるようなことはついに無かった。道なりにただ歩いていけば、目的地に着くことが容易にできる「お出掛け」だったのに。

 店の中に入ると、私と父が来ることを承知していたおばちゃんが、笑顔で私を手招きする。
 ぽん、ぽん、というよりは、お米を研ぐ手つきのように、ぐるっと頭の上で髪を掻き流すような撫で方で、私よりも見ている父の方が顔をゆがめて笑っていた。
 三つしかない椅子のひとつに腰掛けると、おばちゃんがケープをかけてくれる。
 おかっぱにした髪の毛の、前髪とうしろをそろえるだけの毎月のお仕事を、おばちゃんは私と父の事情をみんな知った上でこなしてくれていた。
 後ろ髪をそろえてもらっている間、私は店の中を観察していた。
 入り口にある傘立てから順に、壁の上の方にかかった連絡用の小さな黒板、足元に置かれた消火器の箱、扇風機。
 一ヶ月で変わったものが何も無いのを確認すると、奇妙に安心する気がした。

 首のうしろではさみが鳴っている。

 お父さんは控えの椅子に座って雑誌を読んでいる。髪を切ってもらうわけではなくて、私の前髪と襟足が綺麗な一直線になるまで、ただじっと待っている。


 四歳までは、お父さんに髪を切ってもらっていた。
 親戚のおばちゃんの床屋さんでは、お店の部分と生活する部分が半分くらいくっついている。玄関はお客さんが入ってくる入り口と一緒。


 お父さんは郵便局でたくさん嫌な思いをしているんだ。


 髪を切るためにおばちゃんの所へ来るのは、お父さんと一緒じゃなきゃ駄目でお母さんは来なかった。
 お父さんとお母さんはとても仲が良くって一緒にいるのは楽しくてしあわせなんだと言っていた。


 でも一緒の人から生まれたんじゃないから、触っているのが嫌なんだって言ってた。


 お父さんはおばちゃんに私の髪を切ってもらうようにして、私の髪に触らなくなった。
 いつ手をつないでくれなくなるんだろう、今日はおばちゃんは何の味のガムをくれるかな、
 その二つのことを同じように考えながら、いつもいつも店の中を観察して確認する。

 今月はまだ変わっていない。

 今までに見た世の中のいろいろなものより、おばちゃんの店の中のいろいろなものの方が、私にたくさんの印象をくれた。





 おとうさんが、半分お母さんの血が入った私に触ってくれなくなる日は、


 いつ、


 いつ、


 いつか。   いつか来るんだろう。





 ぐるぐるまわるまぶたの裏の色彩の中から、前髪を切るはさみの音が聞こえてきて、止まる。


 目を開いたそこにはおばちゃんもお父さんも誰も彼も色さえも無くて、

 私は汚れた椅子の上で大きくなった体を丸め、

 久しぶりにぼんやりと、私を見つめた父の顔を思い出してみた。

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