文
- 開花
2003年05月31日(土)
ぱりんと乾いた音をたててプラスチックの袋は破れる。午前11時を過ぎた窓の外からの陽は温く黄味を帯びていた。じっとりと重く水気をふくんだ空気の中を手探りで這い進み、電子レンジであたためた今川焼の皮のような寝床からどうにかこうにか脱出した、ちょうどそのころのことである。同居人はもうとうに起き出して、べったり肌をすいつける木目の床の上に座り込んでいた。視線の先ではぴいがらとテレビが何かわめきちらしている。 「何見てるの」 寝起きいちばんに出した声はごそりと掠れた。同居人は答えなかった。ぺとり、ぺとりと四つ足で近寄る。むき出しの白い両脚と二の腕に、薄く汗をかいている。ぐるりと同居人の、その体を一周見回してみた。髪もTシャツも寝乱れたままだった。色の濃い唇が無表情にもぐもぐとうごめいている。産毛の生えた丸いあご、首、胸元まで来て方向転換、肩、上腕、肘、下腕、手首、手首の小さな骨、やわらかそうな手の平、指先。指先にちいさなささくれができている。同居人は自分が見ていることを知ってか知らずか、その小さな指先をひらひらとはためかせて唇をぬぐった。ショートブレッドを食べている。視線はあいかわらずテレビの中にだけ注がれている。 自分の目を覚ました破裂音がまた響く。ぱりん、とショートブレッドの袋は破れる。 「ちょっとちょうだい」 けふん、けふんと小さく咳をして、声をととのえてから発声する。同居人は答えなかった。答えないかわりに、少しだけ視線を寄越した。薄いゼリーのような視線だった。胃の下のあたりから、皮膚をすきま無く埋め這い上がる。部屋をくろくろ渦巻く水の粒の表面張力で、同居人の彼女の視線はまさに僕に貼り付けられたのだ、と自分は思った。 同居人は、食べかけたショートブレッドを白い指で差し出した。居ごこち悪く思いながら受け取った自分にまた一瞥をくれて、今度はささくれた指をいじりだす。自分はぼりぼりとショートブレッドをかじっている。 テレビは昼のドラマのようだった。前後のつながりはまったくわからない状況で、しかしドラマの中では女が泣いて男が怒っていた。自分はぼりぼりとショートブレッドをかじっている。女の涙はこぼれた端から気化していくのだろう。男の怒りがそれをやたらに促進するのだ。同居人はもじもじと指先をいじっている。自分はぼりぼりとショートブレッドをかじっている。テレビはぴいがらと何かわめきちらしている。女の涙が気化して男の怒りはそれを促進する。 自分と同居人の間には熱された水の粒がくるくると回っている。沈黙までがじっとりと汗ばんでいる。 「少し、暑くない?」 同居人は答えなかった。自分はぼりぼりとショートブレッドをかじっている。食べ物を噛んで飲み込み胃が激しく収縮弛緩を繰り返す。だんだんと自分の中の熱が上がるのを感じた。陽が傾きはじめるまではまだ時間がある。西日の差すこの部屋は、夕方にはまるでアルコールランプの上のフラスコみたいに熱くなる。こぽこぽと湧き上がるのは熱だけではない。どうしたの、という呼びかけを舌の上で撫でくりまわす。この同居人はもとからそう多弁な方ではなかった。二人でいてもしゃべらない時間はひどく多い。二人で眠った昨夜のことを思い出してみる。特に何も変わったことはなかった、と思う。 ショートブレッドは昨日の昼間に思いつきで買ってみた。特に食べたいと思ったわけでもなかったが、少し金銭に余裕があって、少し目を引くパッケージだったから、ついと手を伸ばしてしまった。買い物はいつもほとんど同居人に任せっきりにしている。一緒に出かけても、何を買うか、どこで買うか、決めるのはいつも同居人の役目だった。自分がショートブレッドに手を伸ばしたときの彼女の視線も、こうして皮膚にも呼吸をさせまいとするような、水気で密着したセロファンだった。 じわじわと体に熱はこもる。テレビはがあぴいとわめいて女は泣く。男は頭をかきむしって怒る。画面は赤みを帯びて自分と同居人を照らした。窓からの陽は黄味がかっていた。女の涙から気化した水蒸気が、自分の部屋の中にも立ち込めているような気がした。ゆらゆらと視界の揺らぐ錯覚を起こす。この部屋は、暑い。まるで南国のようだ。 同居人はもじもじと指先をいじっている。爪の先の染まった白い手は花のようだった。白地に朱の斑点を散らした、毒々しい雨林の花だ。同居人は自分を振り返った。じ、とこっちを見つめる瞳には一層の密なゼリーの膜がある。熱気を帯びた肌も髪も、じっとりと濡れている。自分はこの女がほしくてたまらない。 「どうしたの?」 皮膚のすぐ上を覆うとろみあんのような視線にあぶられながら、自分はようやくその一言を言った。同居人は、んん、と小さく咳をした。苦しそうに眉根を寄せて、んん、と今度は小さくうめいた。 と、彼女の白い指先がぴりぴりと破け始めた。赤い5本の爪の先から、それぞれ2枚の皮膚が思い思いに裂けていく。裂けたその一枚一枚はそれぞれ思い思いに反り返っていく。自分は多少面食らって、それでもやはり何も言わずに、じ、と同居人の変態を見つめていた。ぴりぴりと破れるのは指先だけに留まらず、次は小さなあごの先、鎖骨の上、胸元にひとつ、星状の裂け目が入ったかと思えば次の瞬間にそれは白い薄い花びらに変わった。彼女の皮膚の上に満開の花が咲く。ぱりん、ぱりん、と小さな音が響いた。花が震え、はじけるように開くその音に、自分はぼんやりと夢の中を思い出した。
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