文
- ネイル
2001年08月31日(金)
右手の爪が、綺麗に塗れない。 早麻理は苛立たしそうに唇の端を噛みしめながら、そこだけいやに艶めいて見える自分の爪の先をにらみつけた。薬指、爪の中ほどに不格好な線が入っている。 「ブサイク」 言って、すぐ手元にあった除光液を掴む。コットンなんて使ってられない、そんなに気持ちに余裕がない。胸の中の苛々がどんどん膨れ上がっていく。早く、早く、このみっともない線を消したい。無くしてしまいたい。蓋を開けて、右手全体にぶちまける。 「……あは、は、は、は、」 除光液の薄青い壜が宙を舞った。床にぶつかる音がなんだか遠くに聞こえた気がした。知らない。私には関係ない。視界に入らないものはそこには無いのと同じだもの。転がって、転がって、――私とおんなじ格好で転がっていたとしても。 右手が冷たい。生きたまま凍っていくような変な感じ。なんだかひどく可笑しい。 四畳半の部屋中に、溶剤の匂いが広がってきている。頭、が、くらくらする、……眠り込めそう。不思議と、悪い気分はしなかった。 今、何時なんだっけ? 考えることを面倒くさがる自分の脳に、大した興味も意味もなく早麻理は問いかけた。時間の感覚が薄いのは、きっと連休続きのせいに違いなかった。 右手のネイルが溶けていき、顔を両の手のひらで覆おうとした拍子に頬にはりついた。鼻腔に充満する、きつい薬品の匂い。驚くくらいの無神経さで、それは早麻理の意識を乱した。 ……誰かが見てる。笑ってる。 馬鹿にして。 ……馬鹿にして!
…早麻理は、立ち上がった。それまでの高揚した気分は引いていた。ひどく頭痛がする、私は何をやっているんだろう。 たった一つしかない窓をいっぱいに開ける。晩春の生暖かい風が吹き込んできた。いつの間にか、凍っていた右手も元に戻っていた。溶けて斑だらけになったマニキュアだけが、元よりもずっと汚らしく目に映った。 放り投げた除光液を探す。壜は、部屋の反対側、玄関のマットの上に転がっていた。中身はあらかた無くなっている。マットが吸収してしまったのか、もう気化してしまったのか…まわりにも濡れた跡はない。 早麻理は玄関に座り込んだ。マットの汚れが気になる。何日くらい掃除してないんだろう?もうわからない。 こびりついた汚れにしか見えない爪のまわりのマニキュアをふき取って、早麻理はもう一度……今度は慎重に、右手の爪を塗り始めた。
昼頃、高校時代の友人から連絡があった。連休に入っても実家に戻ろうとしない早麻理をとがめるような口振りだった。 「なんでぇ?せっかくの休みなのに……帰ってきてよぉ。あいたいんだからぁ」 本当にそう思ってるの? 訊いて確かめようという気は起きない。訊いたって、彼女が困るだけだもの。 「ごめんね、でも、どうしても都合つかなくって。サークルの方の活動とも重なっちゃうし」 帰りたくないわけじゃないんだよ、と念を押す。それでも納得してくれない。 電話の向こうで、ぶぅっとむくれる気配があった。 「帰ってくるって言ったじゃぁん!みんなで会おうって約束したのにぃ」 「……ごめんね。夏休みには帰るから。そしたらみんなで集まろうね」 夏になったら、またこうして言い訳をすることになるのだろうか?
……別に、その子に会いたくないからというのではなかった。 玄関先で再び大の字に寝転がって、早麻理は回想していた。両手を伸ばすと右手はお風呂のドア、左手は洗濯機にぶつかってしまう。狭い。 仕方なく、天井の蛍光灯に手を翳してみる。明かりを付けていないので、両腕は自らが黒い影になるばかりでそこにあるはずの血の色も透かさない。ただ、両手の居場所だけは決まったから、なんとなく落ち着いた気がした。 実家に帰らないのは、あの子のせいじゃない。 電話に応じる私の声は、冷たく聞こえやしなかっただろうか。誤解しないでいてくれてるといいんだけど。 (赤を見たい) 赤く染まった爪の先が、薄暗がりの中でさえ鈍く光る。ぼんやりと眺めていると、どこか別の場所に迷い込んでしまうような錯覚にとらわれた。 (洸良のような) ――マニキュアを塗ったのは高校最後の夏休み以来だった。 「綺麗な色でしょ、肌色だから大丈夫、」 あきら そう言って、洸良は私に一本のマニキュアを押しつけた。 「誕生日のプレゼント。新学期になったらそれつけて学校に来て」 当時学級委員だった私は、そんなことはとても出来なくて、結局新学期も素のままの爪で学校に通った。うれしくないわけではなかった。私は洸良が好きだったから。だから、夏休み中ずっと肌色に光る爪のまま、私は洸良のことを思っていた。 新学期にならなければ、洸良に爪を見せる機会など無いのは知っていたけれど。 いったい今、何時なんだろう。この爪、もう乾いてるのかなぁ。 今日が何月の何日であるのかさえ、すでに忘れた。早麻理の心の時間は、高校時代のあのとき、あの瞬間から止まっているのだから。
「約束破り」 何もつけなくても貝のような桃色に染まる爪が、本当は赤や青や肌色よりも美しく見えることを、洸良は知っている。けれども、きかん気の子供をしかるような口調で、早麻理を見るなり洸良は言った。言葉のきつさとは裏腹に、洸良の瞳は「やっぱりね」と笑っていた。少し、安心しているようにも見えた。 「学校に、マニキュアなんかつけてこられるわけないじゃない」 それに、約束したわけじゃないじゃない、一方的にあんたが言ったことでしょ。言いながら、早麻理は怒ったように顔を逸らした。洸良の言葉にひどく動揺したことを悟られないように。 「先生は気付いたりしないよ。誰も、早麻理が校則破るなんて思ってないもん」 洸良だけ。 洸良だけが知っている。本当の私を。 ……洸良の言葉にいちいち傷ついたり喜んだり。私はひどく、洸良に依存していた。洸良のことしか見えていなかった。 「一時間目、なんかだるいなぁ……ねぇ、一緒に逃げちゃわない?」 ふざけたように言う洸良が、私のことしか誘わないのが誇りだった。
洸良とは一ヶ月近く会っていない。声すら聞いていない。あの頃の親密さにはもう帰れない。私も、洸良も、もうお互いに近づくことは出来ない。触れ合うことはできない。 痛いから。
早麻理が大学を決めたのは、十二月も終わる頃だった。 それまでさんざん担任の教師や親を悩ませたあげく、早麻理は独り涼しい顔をして、他人が用意してくれた見栄えのよい進路をことごとく蹴り飛ばした。早麻理の希望する進路は一つだけ、洸良と一緒の大学へ行くことだけだったのだから。 そう、洸良が嫌がりさえしなければ。 「逃げるいいわけにされるのは、いやだ」 進路指導室から出てきた早麻理を見るなり、洸良はそう言った。顔に、笑みは浮かんではいなかった。 「逃げてなんか、いない」 早麻理は顔を逸らした。……ひどく狼狽していた。 「……嘘は、嫌い」 嘘?……嘘だって? 反射のように振り向いた先には、 洸良の瞳。
「いつだって、早麻理は自分の本当にしたいことをしていけばいいんだよ。……私を言い訳にしないでも」
傷ついた瞳。 そのときから、早麻理の時間は止まっている。 壊れてしまったから。
パールの入ったネイルは嫌い。 あのころ、洸良はよくパールカラーのマニキュアをつけていた。ひっそりと優しげな色でいて、ねたましいくらいに人の目を引きつける。 洸良によく似ていた。 「最近、洸良と一緒にいないんだねぇ。どうしたの?」 私と洸良の仲の良さを知る友人は、口々に心配そうに声をかけてきた。けれども早麻理は気付いていた。本当は……みんな、私を気遣ってくれているんじゃない。私がかまわれているのは……洸良のそばに一番長くいたから。誰もが、洸良と仲良くなりたいから。私はただの踏み台。 そんなに気を遣わなくたっていいんだよ、私はもう洸良のそばにいられないんだから。誰だって、自由に洸良に近づけばいい。 私がそれに耐えられるかどうかは、わからないけれど。
洸良は、私が高校三年間の全てをかけて愛した、 ただ一人の女の子でした。
「……洸良、」 思い詰めたように名前を呼んでも、返る声はない。 夕暮れが近くなってきているのだろうか、部屋の方から漏れてくる光がかすかに朱を帯びて見える。台所の暗がりは、ますます影を濃くするばかり。自分の翳した掌さえも、もうはっきりとは見えなくなっている。……霞んで見える。泣いているのだろうか? 洸良。洸良。何度呼んでも、気持ちがつきることだけはないよ。地元での生活はどう?変わりない?楽しい?友達はたくさん出来た?聞きたいことは沢山あるんだよ。声を聞きたいよ。またいつか、話せたなら。 私は、洸良に頼りすぎてた。……わかってるよ、洸良を口実にしてたね。ごめん。気付いてたんだね、洸良の方がずっと早く。本心のままに生きることを恐れて、本心のままに生きる洸良に嫉妬して、洸良に引きずられてるふりをしてた。マニキュアをつけてこなかったとき、安心してた?利用されてるんじゃないかって、ずっと不安だった? ……ごめんね。私、洸良を利用してたんだと思う。無意識だったのか意識的だったのかはもうわからない。でも、私が洸良を好きだったのは本当だよ。独占したいくらいに、大好きだったよ。 私、変わった。もう高校の時の私じゃない。自分の本心のままに生きるようにするつもり。大学も、結局地元からは離れたところを選んだからね。自分の思ったとおり、……今度こそ。 髪型変えたんだ。茶色に染めたの。ピアスだって開けた。今度地元に帰ったら、先生達びっくりするよ。「どうしたんだ、早麻理」って。ずっとしたかったことなんだよ。ただ、やらなかっただけで。
……でもおかしいんだ。本当の自分に近づいていってるつもりなのに……なんだか、逆にどんどん遠のいていってる気がするよ。見失いそうなんだ、自分自身を。……どうしてなのかな?洸良、わかる? 洸良と同じ髪型だし、洸良と同じピアスにしたのに。
夕暮れの時間はとうに過ぎていた。あたりはほとんど全てが、音もない夜の闇に包まれようとしていた。早麻理は台所に寝ころんだまま、何をするでもなくぼうっと自分の爪の先を見上げていた。 光もない。灯りもない。それでもなお、早麻理のパールレッドに染まった指先からは、艶めかしい輝きがこぼれていた。 何の光を反射するでもなく、自分自身の力で。
……爪の奥は、異次元に見えた。
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