文
- 原生林
2001年04月20日(金)
歩いていた。 何も考えず、何も考えられず、気がつけば、――歩いていた。 ここは、どこだろう?問いかける声は、自分のもののようでもあり、全く違っているようでもあり、――違っていた。誰のものでもなかった。 周り、目に映るものは、――灰色だった。なんで、こんなに一色に染める必要があるんだろう?赤や黄色や紫じゃ、どうしていけないんだろう? 見上げたら、気分が悪くなる。どうせ、馬鹿にしてるんだろう?いつもいつも、なんでそんな風に見下ろしてるんだよ。どこかに行けよ。行けったら。 ただ歩いていた。心の中でどんなことを吐き出していても、ただ歩いていた。瞳を上げることすらできなかった。できないように造られてるんだ。 灰色は、いつでも僕を、僕たちを圧していた。圧して、圧して流れを造っていた。 ただ、僕たちが間違えないで歩くためだけにある流れを。道を。
息が詰まりそうになるくらい密になって建てられた、灰色の群れ。その間をどうやって風が通っていくのか、僕にはどうしても理解できない。 いっそ、どこかに引っかかってしまおうか。 できない。できないのはわかってる。流れからは抜け出せない。だって、怖いんだ。 流れはいくつもの筋に分かれ、一方でまたひとつになる。ただ歩いていく複数の人々は、それぞれが違う目的地を目指して、――でも、本当は目的地なんて決められていて、――とにかく、歩いていくだけ。 整えられて、形を変えられて、それでも人々は歩いていく。流されて。人々。人人。人、人、――人の群れ。人の流れ。 複数の、僕たちの流れ。 行きつく所は同じなんだ、みんなそれをどこかで知ってるんだ。抵抗したい。できない。僕たちに意志がある必要はない。ただ、手入れをされて整えられて、いつかあの灰色の中に含まれてしまえばそれでいいんだ。それが一番正しいんだ、この世界の常識では。 見てみればいい。適当に一人、すぐ目の前を歩いてる女でいい。これから彼女がどこに行くのか、僕は知らない。けれど、本当に行きつく場所は、僕にだって誰にだってわかる。知ってる。ひとつなんだから。 細い首。細い腕。細い足、細い指先。綺麗に爪まで整えて、姿勢にまでも気を遣って。――だからって、何になるんだ?僕らはいつか、あの灰色の中に刈り取られていく。ただそのために育てられて流されているだけなのに。 そうだ、僕たちは資材だ。ただの消耗品にすぎない。永遠を生きる者はない。一時的にこの社会に生まれ来て、遣いやすく育てられて、だめになったら捨てられるだけ。それだけの存在。知ってるんだろ?分かってるけど、考えたくないんだろ? 同じなんだから。
彼女は歩いていた。僕と同じに、ただ歩いていた。翻る赤いスカートの裾は、灰色の中によく映えた。灰色に気に入られそうだ、と僕は思った。それだけの意味しかないと思った。 短く散らした茶色の髪は、肩に届く前に宙を舞う。灰色に囲まれて、光の届かない薄暗い、無数の人と人の間を、軽やかに彼女はすりぬけていく。だから何だっていうんだ、どんなに外見を取り繕っても無駄だ、身のこなしを覚えたからって何になるんだ、僕は苛立っていた。注目して見れば見るほど、彼女が灰色の中の原色に見えてしかたがなくなってきていた。こんなのおかしい、嘘だ。だって僕には原色が無いもの。僕と同じであるはずなのに、僕に無いものを彼女が持っているなんて嘘だ。 おかしかった。彼女の周りは無数の僕だ、それは間違いない。だって、彼らは原色を持っていない。僕と同じく、灰色にしか見えないもの。 それとも何だ、僕が間違っているのか?こんなに、一定方向に流されていくのが見えるのに?偶然ぶつかる瞳の奥にも不自然なくらい無関心を貼り付けた表情にも、僕と同じ整えられた、温度すらない綺麗な木目が見えるのに? 違う、違う!彼女こそが偽りだ。原色は灰色には必要ない。取り込まれることはない。彼女は偽りで、僕じゃない。僕は灰色で、灰色の一部で、悪態を吐きながら見上げることもできないくらい嫌悪し恐れておきながら、――執着し依存していた。それが当然だろ、僕は正しいんでしょう?彼女は違うんだ、違うんだ、違うんだ!
だったら、どうして彼女のほうが鮮やかなんだろう?
僕は衝動的に手を伸ばした。認めたくない、でも美しい、嫌いだ、でも惹かれてしかたがないんだ。彼女は階段を下りようとしていた。今しかなかった。 細く、体重を感じさせないと思った。下に向かって落ちていくのを見て、やっと彼女にも重みがあるのだと感じることができた。色だけにしか見えなかった。色だけの彼女に惹かれたのだと思った。高い階段ではなかったけれど、彼女の落ちていく色は、はっきりと残像を残して僕の瞳に線を描いた。 僕は安心していた。しかし同時に恐怖していた。僕は、流れを外れたのか? 流れは止まっていた。人も、人も、人もすべてが止まっていた。その中心に横たわる彼女は、しかし動いた。 瞳が持ち上がり、僕の見開いた両目とぶつかった。周りの人、人、人の目が僕に向かった。 瞬間に、気付いた。 すべての人々の瞳は、原始の緑だった。
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