MEMORY OF EVERYTHING
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2002年12月25日(水)

 学校に、黒い蝶が舞い始めた。

 何か――何かを訴えている。
 蝶たちは、無言のままここへ何かを運んできている。

 何かが起ころうとしている。

 私の手に、1匹の蝶が舞い降りた。
「!」
 蝶はすぐに飛び立っていったが、手の甲に残った余韻に間違いはなかった。

 毒を移す蝶。

 甲が痺れ始める。
 私は身を翻して、それまでいた裏庭へ続く扉から校舎内へ戻った。
 目の前と、右手に伸びる廊下。
 それぞれに、k持先生や“おばちゃん”先生、t橋先生が私に背を向けた格好で歩いていた。
 私の手から回った毒は、人に移すことで自分から解除されるものだと直感でわかっていた。3人をそれぞれ見て、最も近いところにいたk持先生に1度毒を預かってもらうことにした。勝手なことをし、申し訳ないという思いが込み上げる。しかし、ここで私が倒れる訳にはいかない。

「k持先生」
 呼びかけて近づき、振り向いたk持先生に手の甲を押し付ける。
彼女は一瞬驚いたような顔つきになったが、すぐに「あっ」と叫んで抱えていた荷物を取り落とした。そしてその次にどうするかと思えば、彼女はトイレに駆け込んだのである。蝶の毒を受け取ると、尿意をもよおすらしい。
 私はそれを見て、しばらくは惨事に発展することもないらしいと確認すると、誰か男の先生を探しに廊下を走った。
 まだ、大した毒ではない、と決め付ける訳にはいかなかった。漠然とした不安が私の胸を満たしていた。とにかく、この学校の敷地内ではいまだに黒蝶が飛び交っているのだ。やがて誰かが蝶に触れ、騒ぎが起こるに違いない。
 授業をしている教室の前でようやく男教師を見つけた。
「先生!」
 男教師は、いぶかしむ表情をした。授業中であるはずの今の時間に、廊下を走る私は確かに規定外だ。が、今はそれに取り合っている場合ではない。私は一方的に叫び込んだ。
「すぐに授業を中止して下さい。そして全校生徒に放送で連絡を。“敷地内に飛ぶ蝶に触れるな”と」
 私の剣幕から異様な雰囲気を感じ取ったのか、男教師はすぐに廊下を走っていった。それからまもなく、スピーカーから校長の声が流れ始めた。授業を中止する内容だ。扉にはめられた覗きガラスから教室内を見ると、いささか幼い顔つきの生徒たちが不思議そうにスピーカーを見上げ、放送に聞き入っていた。ここは1年生の教室だ。
 
 授業は中止され、生徒たちは下校することになった。しかし、校門を出るまでの間に必ず誰かが蝶に触れるだろう。私は出来る限り校舎中を駆け回り、注意を呼びかけた。生徒たちは異例の事態に混乱している。私の姿を見つけると、何が起こったのかを尋ねたがった。
 私にも、本当は何が起こっているのかわからないのだ。今のところ、蝶から受けた毒は人に移すことで解消されるし、移された人は否応なく手洗いへ走ることになるだけだ。
「少しトイレが混むかもね」
 と、話し掛けてきた生徒に言って、私はまた廊下を走った。
 案の定、何人かは敷地内で蝶から毒をもらってしまったらしく、校舎内が一段と騒がしくなり始めた。泣き叫ぶ声。からかい混じりに手を押し付けあう声。面白がって蝶に触れてみた生徒もいるかもしれない。調子に乗る男子を幾人も知っていた。考えると頭が痛くなってくる。

 私は先ほどの扉から裏庭へ出た。地面は秋色の落ち葉で埋め尽くされている。そして空中には、見つけられる限りで5匹ほどの蝶がふわふわと舞っていた。
 敷地に沿って植えられた落葉樹の下を、1年の時に同じクラスだったs野君が歩いていた。今は彼とは離れたクラスで、友人から話を聞く以外に対面することもなかった。理由はわからないが学校へ来る事は人より少なく、特定の友達と話す以外、それほど多くの友人と関係を持っているわけではなさそうだった。ただし悪い噂がある訳ではなく、言ってみれば周囲から“無害”とされるような生徒だ。彼はさっき私が初めて蝶に気付いた時も、裏庭を歩いていた。そしてその口にタバコをくわえていたので驚いたのだ。まさかタバコを吸うような人とは思っていなかったから。
 私はs野君を横目に、落ち葉を踏みつけながら裏庭を大きく回って校舎の角を曲がり、校庭に出た。生徒たちの何人かがそこにいて、蝶に怯えたり友達とふざけあったりしていた。殆どは少等部の生徒らしかった。
 私はふとあることに気付き、そこへ立ち止まった。そして心の中で蝶に呼びかけた。右手を掲げると、呼び寄せられた蝶がふわふわとやって来て、私の甲へと止まり飛び立っていった。また、ジンとした痛みのようなものが甲に移る。
 私は自分の手を穴の開くほど見つめて考えた。

――もしこのまま、誰にも毒を移さなければどうなる?――

 胸の中で何かが思い当たった。先ほどまで胸を支配していた不安の原因はこれだ。蝶に毒を移され、人に移し、その人もまた別の人に移し―とやっていたら、毒はどこまでも広がっていく。それを阻止するために最も簡単なことは、蝶に止まられた後、何も行動しないことだ。しかし、毒を持ったその人はどうなる?

 私は校庭からそのまま教室へ入れるようになっている出入り口から少等部の室内へ入ると、廊下に出て、またしても裏庭に繋がる扉に向かった。
 扉の先に段差の浅い階段が3段しつらえてあり、そこを降りれば地面に足をつけることになる。私は扉を出てすぐの、階段に差し掛かる平らな場所に立ってあたりを見回した。蝶を探したが、この時に限って見当たらない。視線の先にまたs野君が歩いているのが見えた。
 その時、一羽のカラスのような鳥が裏庭へ飛んできた。私はすかさずその鳥へ呼びかける。

『お願い、私の話を聞いて』

 鳥は数回裏庭を巡回すると、やがて落ち葉を吹き上げながら地面に降り立った。地面に足をつけてから、数メートルの余裕を持って鳥は羽ばたきをやめた。その間にカラスだと思っていた鳥はみるみる大きくなり、ダチョウほどの大きさになった。

「聞きたいことがあるの」

 再び呼びかけると、鳥はゆっくりと首を回して、こちらへ歩いてきた。ダチョウというよりエミュウを思い浮かべたくなるその姿に、私は少し怖くなった。全身を茶色と灰色の間をとったような羽根で覆い、2つの目が赤い点となって光っている。
 
 鳥はこの学校で今起こっていることについて知っているはずだった。動物たちはいつも自然の動きに敏感だ。
 私は鳥に向かい合い、蝶が現れ、手に止まられると毒を移され、人に伝染して広がっていくことをひととおり説明した。やはり鳥はこの件を既に心得ているようだった。私は本題を切り出した。

「もし、蝶から毒を受けて、そのまま誰にも移さなかったら――……どうなる?」

 鳥は、声というより音そのものといったような低音を、どこからか響かせた。

“死ぬ。”

 私は一瞬、身体を硬直させた。
 聞く前から、予想はしていた。しかしもしかしたら、洗い落とせば消えるとか、時間が経てば自然になくなるんじゃないかと、期待をしていたのは事実だった。

 鳥は何かを喋りながら近づいてきた。必然的に、私は後ずさる。突然に距離を縮められたこと、鳥の姿に感じざるを得ない恐怖、そして死という言葉に与えられたショック。それらに襲われて、私は鳥のいくつかの話を覚えていることができなくなってしまっていた。記憶することが出来たのは、鳥は話の中であの黒い蝶のことを“姫君”と呼んだこと。そして本能で理解できたのは、――目の前に迫りつつあるこの怪鳥は、自分を殺そうとしているということだった。
 鳥は「どうもありがとう」のお礼でこの話を終わらせるつもりはない。

 私は出来るだけ鳥に動揺を悟られないようにしながら、校舎の中に戻った。鳥と向かい合ったままゆっくりと後ろへ下がっていく。この事態を収拾できるのは自分だけだと確信していた私は、この時初めて「誰か」と思った。助けを得られるかどうかは別にして、人の多い場所へ逃げたいと思った。
 少し行けば人の気配のする部屋があった。後ろ歩きのままようやくそこまでたどり着くと、隙を見て扉を開けた。しかし中にいたのは教師たち数人だった。思ったより少ない上に、頼りになりそうにない面子だと一瞬にして認識してしまった。
 鳥は一歩一歩近づいてくる。私は室内と廊下の鳥を見比べた。

 ―――殺される!


ゆり |MAIL

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