-殻-
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2月19日の日記を読み返して思ったことだけど。
僕の思考はやっぱり、不確定性に支配されているらしい。 とてもハイゼンベルグ的なことを言っている。 僕は常々、言葉というのは量子的な多重性(*)と不確定性を持っていると思っていた。 頭の中にあるのはあくまでも「イメージ」であって、思考過程において言語的な認識が為されているとは僕には思えない。それが言語化(具現化)されるにあたり、そのイメージに「焦点」を当ててしまうと「波動関数が消滅」してしまう。実在の形が確定されてしまうのだ。そしてその実在は、元の「イメージ」の「一側面」でしかない。 だから僕は、実は「イメージの言語化」に恐怖していた。 ココロの欠損を埋めるために感情を放出しようとしても、そのために言葉という手段を借りることは僕にとっては危険なことだった。 もともとネガティブな思考回路を持つ僕は、言語化する際の焦点がどうしても「負」のモードになってしまう。そこから連鎖的に生まれる言語化の流れは、とてつもないマイナス思考の無限ループ。不安、恐怖、絶望、羞恥、後悔、劣等。そこに陥ってしまうと抜け出せない。 だから僕は、おそらく無意識のうちに、イメージをイメージのまま放出する術を探していた。そして「音」を見つけた。(これについてはいずれ書くことになるだろう) そうして「言葉」からしばらく遠ざかっていたのに、何故かまた今こうして言葉を綴っている。 以前よりは自分を客観視できるようになったということもあるだろうし、生活に若干ゆとりができたせいで考える時間が増えたということもあるだろう。でも、一番大きな原因は「吹っ切れた」ということだ。 ひととひととのつながりの中で、何かが変わってきた。閉じた世界で鬱々とこねくり回していた理屈が、現実の中に晒されて止揚されたのだろうか。環境がここ数年目まぐるしく変わり、それが僕にとってはとてもいい方向に働いたようだ。 こうして変化し続けていたい。外殻は移ろっても、自己という構造を「進化させつつ保持できる」実存でありたい。それは「受け入れる」ということなのだろう。 不確かなものは不確かでいい。そこにあることを知っているなら。 そして、「受け入れる」ことの一つとして「観測して具現化する」ことが必要なら、それをも受け入れたい。 僕の彼女との関係は、現実の中での実存を他者との関係性に見いだす上で重要だ。相反する感情が交錯することもある。愛情っていうものの定義なんて誰にもわからないから、それすら自分たちの中に構築していかなければならない。そしてその過程全てが、僕の構造になっていくのだ。そのいびつな道筋を手探りで辿るためにも、例えそれがほんの部分に過ぎなくても「残す」必要があると思った。 その一環として、2月19日の日記はある。 書くときには何も考えずに、思いつくことをそのまま書いたのだが、読み返してみて、やっぱり自分にはこういう思考をする癖があるんだな、と納得してしまった。 なんとも支離滅裂な文章になってしまった。 でも自分の中では、勝手に満足しているのでよしとしよう。 *厳密に量子力学を論じるならばこれは波動・粒子の「二重性」なのだが、対象が言葉なので敢えて「多重性」とした。ご容赦を。 INDEX| PAST| NEXT | NEWEST |