-殻-
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ばあちゃんが死んだ、って聞いたのは、おふくろからの午前5時の電話でだった。
霊感の強いおふくろは、例によって何か嫌な予感がしたらしいけど。 僕は急いで飛行機のチケットを取って、つい2週間前に「何かあったら困るでしょ?」と言っておふくろが買ってくれたフォーマルと黒いネクタイをクローゼットから取り出した。 おふくろの霊感も大したものだ。 そう思いながら、空港行きのバス停へと急いだ。 ばあちゃんは、僕にはいつもやさしかった。 少ない年金からいつも小遣いをくれようとして、欲しいものは何だ、と何度も何度も聞いた。あまり何度も聞かれるので、逆に僕は答えにくくなってしまったけど。 僕がものごころつく頃には、もう腰も曲がっていたし、目も相当悪く、耳も遠くなっていた。それでも明治生まれの女性というのはとにかく丈夫にできているらしく、病気らしい病気はほとんどしなかった。 一年のうち、3ヶ月から半年は我が家で過ごしていた。僕はばあちゃんが来るのがすごく嬉しかった。親父は末っ子だったけど、その割にはあまりばあちゃんに甘えたりせずに育ったらしい。兄弟が多かったこと、そして畑仕事があまりにも忙しくて時間がなかったというのがホントのところだろう。それについては、おふくろが少しだけ話してくれたことがあったけど、親父は家族のことをほとんど話さなかった。あまり居心地のいい場所じゃなかったみたいだ。 とにかく、ばあちゃんは苦労人だった。 最初に結婚した人とは2人の子供を設けたが、死別。その弟とその後再婚。つまりそれが僕のじいちゃんだ。じいちゃんとの間には4人の子供がいて、その一番下が親父だ。 じいちゃんは何と言っても、働かない人だったらしい。 いつも本を読んでいたり、何か書き物をしていたり。 インテリだったそうだが、ばあちゃんにしてみたら全ての仕事を一人で請け負っていたわけだからさぞつらかったろう。朝から晩まで、泥だらけになりながら畑に出ていた。春も、夏も、秋も。 それでも4人の子供を育て上げ、隠居したはいいが今度は居場所がない。親戚の間をたらい回し。自分たちをここまで育てたのは他ならぬばあちゃんなのに、一体どういうことだ。 親父だけが、いつも何も言わずばあちゃんを受け入れた。 そしておふくろが、一生懸命世話をした。 4人子供がいるにも関わらず我が家にいる期間が長かったのは、他の子供たちがばあちゃんを家に置きたがらないからだと知ったのはずいぶんと後のことだ。 いつのまにかばあちゃんは、実の子供たちよりもおふくろを頼るようになっていた。 「ここにいるときがいーちばん落ち着くねえ」 ばあちゃんは口癖のように言っていた。 苦労して苦労して、ようやくたどり着いたその場所は、血のつながっていないおふくろのぬくもりだった。 耳が聞こえなくなって、どんどんぼけていくじいちゃんを見ながら、ばあちゃんが言ったことがある。 「あたしゃあねえ、この手のかかるじいさんが死んだらゆーっくり暮らすの。」 じいちゃんは耳が聞こえないから、当然わからない。 なんだか自分の話をしてるらしいぞ、というふうに、にこーっと笑っていた。 なんとなくかわいそうな気もしたが、ばあちゃんの気持ちは痛いくらいわかった。 そんなばあちゃんが倒れた。 ある日の早朝、トイレに行った帰りにめまいがして転び、柱に頭をぶつけた。 おふくろがその音に驚いて飛び起きて、こぶができたばあちゃんの頭をさすっていた。 そしてその日の昼間、意識がなくなった。 それは頭をぶつけたせいではなくて、そのめまいそのものが脳血栓によるものだった。 長いこと意識は戻らず、それっきり、僕の大好きだったばあちゃんはどこかに行ってしまったんだ。 ようやく目を覚ましたばあちゃんは、少女になっていた。 記憶がないのだ。苦労して苦労して苦労した時代の、記憶が。 ばあちゃんは、自分が一番幸せだった時代の記憶だけを残して、あとの全てを消し去ってしまった。 それは、まだばあちゃんがおそらく20才前。結婚する少し前だろう、とみんなが話していた。親父の顔を見て、「兄さん」と呼びかけていた。あんなに頼っていたおふくろの顔を見ても、訝しげに「どちらさまですか・・・」と言う。 あの時のおふくろの寂しそうな顔が、忘れられない。 当然、僕たちの顔を見てもわからない。 ただ一つ、ばあちゃんが自分で付けた僕の姉の名前を除いては。 余程嬉しかったのだろうな、と思う。本人のことはわからなくても、その名前だけはばあちゃんは消さなかったのだ。 ばあちゃんの「幸せだった時間」に、僕といた時間は入っていなかったんだろうか。 それが、悔しくもあり、哀しくもあった。 その後ばあちゃんは一度我が家に引き取られたが、やはり在宅介護は当時パートで働いていたおふくろに負担がかかりすぎ、結局札幌の老人病院に入院することになった。 おふくろは1年に3,4度は札幌まで足を運び、ばあちゃんを見舞った。 僕はと言えば、僅かに2回くらい会いに行った程度だった。 ばあちゃんに会うのがつらかった。 僕の好きだった、そして僕を好きだったばあちゃんは、あの時記憶と共に死んでしまったのだ。僕はそう思っていた。 ばあちゃんが倒れて以来、じいちゃんは急速に痴呆が進んだ。 体も弱った。 そしてある秋の日、風邪をこじらして肺炎であっけなく死んでしまった。 親父は涙一つ流さなかった。 そして、それぞれがそれぞれに忙しい日々を過ごす中で、少しずつばあちゃんのことを思い出すことも少なくなってしまっていた。たまにおふくろから、見舞いに行った時の話を聞く程度だった。 もう何年会っていないだろう。 おそらく、7,8年になるだろうか。 飛行機は、まだ風の冷たい北の街に着いた。 霧雨がそぼ降る中、斎場に向かう。 遺族の控えの間。 扉を開けると、ずいぶん長いこと会っていなかった親戚の顔が目にはいる。 みんな年を取っていた。 僕はそんな懐かしい顔を眺めながら、知らないうちにずいぶんと時間が過ぎていることに改めて気付いた。そして、ばあちゃんを忘れかけていた薄情な自分にも。 一番奥に、ばあちゃんが眠っていた。 「顔、見るかい?」 おふくろが言う。 「うん。」 と僕は答える。 ばあちゃんの顔にかかった白い布を、おふくろがそおっと外す。 とても安らかな顔だった。 もう何年も見ていないばあちゃんの顔。 きっと、とても年を取ってしまっているのだろうな、と思っていたけど。 僕の好きだった、あの頃のばあちゃんの顔に、戻っていた。 「ねえ、いい顔してるんだわ・・・」 おふくろが涙をこらえながら言う。 やっと時間がつながった気がした。 不思議と、悲しくはなかった。 自分勝手だとは思ったけれど、僕の中では、ばあちゃんはあの頃のままで止まっていて、今こうしてそのままの姿で僕の前にいた。 声には出さなかったけど、僕はそっと呟いた。 おかえり。おつかれさま。 出棺の時、親父が泣いていたような気がする。記憶が確かではないのだけれど。 きっと誰よりもばあちゃんに感謝していたであろう親父にとって、ばあちゃんの死はとてもとても重いものだったと思う。 そしてこの涙は、僕にとって初めて見る親父の涙でもあった。 INDEX| PAST| NEXT | NEWEST |