散書
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2008年10月24日(金) 嘘と方便

誤魔化しと必要悪。


虚数というものを、ようやく理解できた気がする。まあつまり、ある条件を満たそうと思えばそれをでっち上げなければならなかったこじつけで、けれどそうやって無理矢理に自分たちを納得させなければどうにもならない問題が確かに実在するというもので、その誤魔化しは、確かな意味で必要悪だと言えるのだろう。虚数がなければ携帯電話もパソコンも動かなかったと言われれば(実際には直接にそういう言い回しがあったわけではないにしても)、それが屁理屈から生まれたものでしかないにしても、許容する以外の選択肢は、すでにない。
まるで、この社会の枠組みみたいだ。
実在しないし存在の証明もできないものを、けれどそう考えれば辻褄が合うからと、不在の証明もできないのだからと理論をを、論理を捻じ曲げ、正当化する。けれど、そのおかげで社会も機能するようになっている。残念ながら、否定できる余地がない。表立って否定すれば、反社会分子として誹りを受ける羽目になるだろう。それが、社会にとって都合のいいものになっている以上は。
まあ、なんだ。
確かに社会に蔓延っているけれど、実在の証明も不在の証明もできないものの暗喩ですので、いくらでも思いつくものを挙げてもらえば、きっとそのすべてが正解だと思われます。社会とは数学的だ。あるいは、社会が数学の虚構に馴染んでしまったのか。
虚数の発見とその論理の確立に尽力した数学者たちや、それを使って現代の文明の機器を発展させている開発者たちの努力は素直に認めるけれど、その数学的な思考が、「そう考えなければ答が出ないから、そういう意味不明なものでも許諾しよう」という怠惰な妥協を、発信者が、「こう考えないと答が出ないように、人目に触れる情報を操作しよう」という発想に悪用しているであろうことも、責任を持って認識しないといけないと思う。もちろん、本当に悪いのは、悪用しようとする側ではあるのだけど、危険性のあるものは、悪用されないように管理するのも使用者の責務なわけで。
と、今日送られてきたばかりのNewtonを、これまでまるで理解で傷にいた虚数の見出しに引かれ、これまでの詰んでいる分を頑なに無視しつつ読んでなんとなく虚数を理解した気になって、そんなことを考えた。いや実際、こういう人たちの努力は本当に凄いと思う。この人たちが重ねたものに比べれば、俺の努力なんて同じ言葉で表現するのも失礼なくらいの努力でしかないのだろうと思うくらい。本当に敬服に値すると思う。でも、それとこれとは別問題という感情。

まあ実際のところ、こんなふうに「数学的な思考」の一部にに対して否定的な意見を述べてしまったりしているわけですが、この虚数に関する歴史の一部を読んで、「文学」を「哲学」と見なし、「物書きとはすべからく、皆、哲学者であるべき」と考える俺も、なんか、こう、今までとは違った視界が開けた気がする次第です。虚数の発見の前、どん詰まりだった数学者が虚数を得てそれまでは解けなかった難問を解けるようになったかのような。と言うと、大袈裟だったり的外れだったり誇大だったりするのかもしれませんけど。それに、「気がする」だけで、実際にはそれ以外はなにも変わった気もしませんし。
でも、気持ちって大事ですよ。

ところで、関連して指数とか出てましたけど、指数もさっぱりわかりません。あと、sin・cos・tanもすっかり憶えておりません。確か数�靴世辰燭�でやったとは思うのですけど。tanに関しては、Newtonではまったく触れてませんでしたけど。
あと、二次方程式の公式もさっぱり覚えてなかったなあ。三次方程式の公式は、習ったような気はするんだけど、と、習ったかどうかすらあやふや。連立方程式の解き方を思い出せなくて悶々としたのも、比較的新しい記憶に留めています。脳の使われない部分は廃れていくのですね。いや、ここは受動態でなく能動態で書くべきか。意識の持ちようは大事です。


細々と、色々なことを考えてしまう日というのが、やはりあったりするわけで。
日常に潜む、偶然と蓋然性のいっそ醜悪なほどの齟齬は、悪意に満ちているとしか思えない。けれど、その悪意によってようやく醒める、そういった悪意によってでなければ目覚めさせることのできないほどの深い悪夢というのが、確かに存在してもいる。
現実に目を逸らして生きるなら、そんな悪意は、ないに越したことはない。けれど、現実に向き合って生きるつもりなら、喩えこみ上げる反吐を堪えてでも、悪意とさえも結託して戦う覚悟が必要だと思う。最近、そう気づいた。
見せかけの平和に呑まれて怠惰に生きることは、確かに楽だけれど、それは自分という澱を淀んだ水に沈めて隠しているに過ぎない。表面から見れば済んで見える水も、底を漁れば砂で混濁する。清流が清流たる所以は、弛まぬ自浄のなせる業。自らの汚濁を認め、それを雪ぐ力を得て始めて、人は清流に近づける。その力を間断なく使い続けることを己に課してそれを実行し、そうして始めて、人は清流になれる。多分、そういうこと。
理想は遠くても、だからと言って諦めては、得ることのできないものが多すぎる。諦めてしまえば、それで終わり。得ることのない人生は、失うことすらできない。

喩え絶望が目の前に横たわっても、絶望を感じる限り、それは希望を捨てていないという、何よりの証左になる。
本当に希望を捨てた何者かがいるとすれば、それはすでに人間ではなく、狂人という言葉でもまだ足りない異質となるだろう。その何者かは、絶望すら感じることができない。
そう考えるなら、清濁を併せ持つということこそが、本当に強いということなのだろう。
けれど、手放すものすら先ず得なければならないということは、それこそが本当の絶望なのかもしれない。


つーか、もう午前三時前か。


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