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「暗幕」日記

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2002年07月21日(日) 私はあなたと違う存在であることを「許され」たくなんかない

「価値観の違いと『許し』」


MUSICA FICTA(2002/07/18 (木) 許すとは、なんとも大仰な)で知った、「価値観の違いを"許す"」について。

本日憂鬱な昨日に猫キック 不安な明日に猫パンチ でまとめて下さっているのを読んで、議論の発端となった胡桃の中の航海日誌(2002/07/18)での「許し」というのは、羊飼いの唄(2002/07/15「心がけたいコト」)からの引用*1であるとはじめて認識した。MUSICA FICTA 胡桃の中の航海日誌の双方とも、続くコメントが発表されているが、本日の日記では初出テキストのみを扱っていることをお断りしておく。



高遠さんのところから飛んでいずしさんの「許す」を見たときの私も「なんと傲慢な」と感じてしまった。

「許す」ことを心がけたほうが良いと思っている。

と書いているいずしさんは、自分と価値観の違う存在を見ると「許せない」と思うのだろう。私はいずしさんと同じ価値観を常に持っているとは保証できないので、私の存在はいずしさんにとって「許されない」ということになる。自分の存在が、他人の好き嫌いによって許されたり許されなかったりするというのは私にとっては理不尽なので私は怒りを感じる。



一方ゆきさんのテキストを読んだときはそれほどの怒りを感じなかった。

わたしがそういった自分とは(かなり)異なる考えや対人関係のあり方を持つ人と出会って、実際に付き合っていくときには、いかにその人のそういった傾向をいかに「許せるか」に心を砕きたいと思う。許せるか、という言い方はちとキツイような気もするけれど、「人は人、わたしはわたし」として、相手のあり方を認められるかどうかってコトだ。

この文脈で「許し」と言うのは、ご本人も書かれているがやや不適切で、「許容」や「容認」といったほうが近いと思う。自分が持っている価値判断で受け入れたり拒絶したりする前に、その人のありのままはそれとして認める、というニュアンスだ。



「許す」というのは「認める」とは違う。「許す」と言うと、自分の価値判断は確固として存在していて、その基準に合致することを認める、と言われていると感じる。つまり、「心がけたいコト」(羊飼いの唄)「価値観の違いと許し」(胡桃の中の航海日誌)では、自分と異なる価値観(とその持ち主)に対する態度が全く異なっている。


名指しで申し訳ないが言わせてもらう、私は「許され」たくなんかない。こういう人とは無関係でいたい。いずしさんが彼自身として存在しているのと同じく、私も私として確固たる存在としてある。不愉快な思いをしてまで彼に対して証明するまでもない事実としてある。


脚注*1「引用」
自分の説や論を有利に・説明(証明)するために、他人の説や事例をもってきて使うこと。典拠:『新明解国語辞典』第三版、三省堂


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