女の世紀を旅する
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2011年02月16日(水) 幕末から明治時代の日本の庶民は幸福だった(2)

幕末から明治時代の日本の庶民は幸福だった(2)







■1.「地球上最も礼儀正しい民族」■

 フランスの青年貴族L・ド・ボーヴォワールは、明治維新の前年、慶応3(1867)年に、世界一周旅行の途中で日本に立ち寄
り、横浜から江戸、箱根などを回った。その見聞録『ジャポン1867年』の中に、次のような一節がある。

 われわれが馬からおりるとすぐに、二、三人の娘がやさしく愛らしくお茶と飯を小さな椀に入れて持ってくる。老婦人が火鉢と煙草をすすめる。他の小径(こみち)を通ってやって来た日本人の旅人も、われわれと同じように歩みをとめる。彼らはわれわれに話しかけるが、たいそう愛想のよいことをいっているに相違ない。当方としては彼らの美しい国をどんなに愛しているかを伝えられないことが残念であった。・・・

 それから一同は再び出発し、湾の奥深い所に見える遠い村まで下りていく。----そこでは、これはどの道を通る場合も同じだが、その住民すべての丁重さと愛想のよさにどんなに驚かされたか、話すことは難しい。「アナタ、オハイオ」(ボンジュール、サリュ)、馬をとばして通り過ぎるわれわれを見送って、茶屋の娘たちは笑顔一杯に叫んだ。
・・・思うに、外国人が田舎の住民によってどのように受け入れられ、歓迎され、大事にされるかを見るためには、日本へ来て見なければならない。地球上最も礼儀正しい民族であることは確かだ。


■2.「日本人の微笑」■

 アイルランドからやってきて日本に帰化したラフカディオ・ハーンは、日本の友人から次のような質問を受けた。

 外国人たちはどうして、にこりともしないのでしょう。あなたはお話しなさりながらも、微笑を持って接し、挨拶のお辞儀もなさるというのに、外国人の方が決して笑顔を見せないのは、どういうわけなのでしょう。

 ハーンは、この質問を受けた時の感想を次のように書いている。

 この友人が言うように、私はすっかり日本のしきたりに染まっていて、西洋式の生活に触れる機会を持たなかった。
そう言われて初めて、自分自身がどこか奇妙な振る舞いをしていることに気がついたのである。・・・

 日本人が言うところの「怖い顔」をした外国人たちは、強い侮蔑の口調をもって、「日本人の微笑」を語る。彼らは「日本人の微笑」が、嘘をついている証拠ではないかと怪しんでいるのである。

 ハーンは長年の日本生活を通じて、自ら「日本人の微笑」を身につけてしまった。その経験から「日本人の微笑は、念入りに仕上げられ、長年育まれてきた作法なのである」と結論する。

 相手にとっていちばん気持ちの良い顔は、微笑している顔である。だから、両親や親類、先生や友人たち、また自分を良かれと思ってくれる人たちに対しては、いつもできるだけ、気持ちのいい微笑みを向けるのがしきたりである。そればかりでなく、広く世間に対しても、いつも元気そうな態度を見せ、他人に愉快そうな印象を与えるのが、生活の規範とされている。たとえ心臓が破れそうになっていてさえ、凛とした笑顔を崩さないことが、社会的な義務なのである。

 反対に、深刻だったり、不幸そうに見えたりすることは、無礼なことである。好意を持ってくれる人々に、心配をかけたり、苦しみをもたらしたりするからである。さらに愚かなことには、自分に好意的でない人々の、意地悪な気持ちをかき立ててしまうことだって、ありえるからである。

 こうして幼い頃から、義務として身につけさせられた微笑は、じきに本能とみまがうばかりになってしまう。


■3.上機嫌な労働者たち■

 他人に対して愛想の良い挨拶をし、微笑みを向ける日本人は、自分の仕事に対しても、上機嫌で取り組む。アメリカの女性旅行作家イライザ・R・シッドモアは、明治20年代の日本を『日本・人力車旅情』の中でこう描いている。

 日も暮れて郊外を走る車夫たちは、いろいろと注意を促すことばを口走って進む。道のわだち、穴、裂け目などがあったり、交差点が近づいたりする時である。こうした叫び声は車列の前から後へと駆け抜けていくが、それはちょっと音楽的でさえある。にこにこして礼儀正しく、愛きょう
もある小馬のような車夫。

 つらい仕事をしながらも、上機嫌に愛想良く振る舞う日本の労働者たちの姿は、外国人旅行者たちの興味を引いたようだ。
明治11(1878)年に日本を訪れた、オーストリア=ハンガリー帝国の軍人で地理学研究者・グスタフ・クライトナーも同様の光景を描いている。

 荷物を担いでいる人たちは、裸に近い格好だった。肩に竹の支柱をつけ、それにたいへん重い運搬籠を載せているので、その重みで支柱の竹筒が今にも割れそうだった。彼らの身のこなしは、走っているのか歩いているのか見分けのつかない態のものである。汗が日焼けした首筋をしたたり落ちた。しかし、かくも難儀な仕事をしているにもかかわらず、この人たちは常に上機嫌で、気持ちのよい挨拶をしてくれた。彼らは歩きながらも、締めつけられた胸の奥から仕事の歌を口ずさむ。喘ぎながらうたう歌は、左足が地面につく時、右足が大股に踏み出す力を奮(ふる)いたたせる。


■4.労働のリズム■

 仕事に励む我が先人たちの姿をもう一つ紹介しよう。明治初期の東京大学で生物学を講じたエドワード・S・モースの『日本その日その日』から:

 どこへ行っても、都会の町々の騒音の中に、律動的な物音があるのに気づく。日本の労働者は、働く時は唸ったり歌ったりするが、その仕事が、叩いたり、棒や匙でかき廻したり、その他の一様の運動であるとき、それは音調と律動を以て行われる。・・・鍛冶屋の手伝いが使用する金槌は、それぞれ異なる音色を出すように出来ているので、気持ちのよい音が連続して聞こえ、四人の者が間拍子を取って叩くと、それは鐘の一組が鳴っているようである。労働の辛さを、気持ちのよい音か拍子で軽めるとは、面白い国民性である。

 人力車夫のかけ声、荷物を担ぐ人夫の歌、鍛冶屋の金槌を叩くリズム。賑わしい労働の姿がここにある。古事記に登場する神々からして田植えや機織りにいそしんでいるが、それも田植歌や糸繰り唄を歌いながら働いたのであろう。


■5.「陽気の爆発」■

 働く女性の姿も見ておこう。クライトナーが染料の藍(あい)を作る工場を訪れた時のこと。

 工場の建物を出る前に、わたしたちは女工が朝食を食べているところを見物した。およそ100人が、ふだん着姿で、椅子や木机に腰掛けて飯を食べていた。わたしたちが入っていくとひとりの女工が笑い出し、その笑いが隣の子に伝染したかと思うと瞬く間に全体にひろがって、脆い木造建築が揺れるほど、とめどのない大笑いとなった。陽気の爆発は心の底からのものであって、いささかの皮肉も混じっていないことがわかってはいたが、わたしはひどくうろたえてしまった。

 箸がころんでも笑う年頃の娘たちにとって、初めて見る西洋人の姿は、可笑しくて仕方がないものだったのだろう。

『女工哀史』は一面の事実を伝えていようが、哀しい生活ばかりだったら、こんな心の底からの「陽気の爆発」もありえない。

 マルクスは19世紀ロンドンの悲惨な労働者階級を見て、階級闘争史観に基づく共産主義思想を生み出したが、同時期の日
本の労働者の姿を見ていたら、もっと明るい平和な思想を生み出したかもしれない。


■6.「アングロサクソン人にとっては驚異と羨望の的」■

 働くときでさえ楽しげな日本人は、遊びの時にはもっと上機嫌だ。シッドモアは、花見の光景に目を見張る。

 日曜日は休息日なので、川面は小舟で一杯となり、岸辺では、しかつめらしい表情をした小柄な巡査が花見客の流れを整理する。・・・妙なかぶりもので変装をした男たちを乗せた小舟が次から次へと川堤沿いに、櫓(ろ)やさおで進む。この男たちは、叫んだり、歌ったり、手を叩いた
り、三味線をつま弾いたりで、全くの自由奔放----アングロサクソン人にとっては驚異と羨望の的である。

 酒盛りに加わる者は各自、酒びょうたん、つまり小樽を持っていて、これを肩からつるす。ひょうたんの中身を飲み干せば、手持ちのお金と意識がある限り補充する。友人、隣人、赤の他人、だれに向かっても、「一杯いかが」とこの元気づけのアルコールをすすめる。出店も三軒に一軒は
酒場だし、どの茶屋の前にも、こもでくるんだ酒樽がピラミッド式に積まれる。

 120年以上も前の光景だが、現代の花見とあまり変わらない。シッドモアは「アングロサクソン人にとっては驚異と羨望の的」と言ったが、最近の在日外国人の間では花見の宴が流行っている、という。


■7.子供が可愛がられる国■

 子供達の姿も見てみよう。モースはこう書いている。

 世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供の為に深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。彼等は朝早く学校へ行くか、家庭にいて両親を、その家の家庭内の仕事で手伝うか、父親と一緒に職業をしたり、
店番をしたりする。彼等は満足して幸福そうに働き、私は今迄に、すねている子や、身体的の刑罰は見たことがない。
・・・

 小さな子供を一人家へ置いていくようなことは決してない。彼等は母親か、より大きな子供の背中にくくりつけられて、とても愉快に乗り廻し、新鮮な空気を吸い、そして行われつつあるもののすべてを見物する。日本人は確かに児童問題を解決している。また、日本人の母親程、辛抱強く、愛情に富み、子供につくす母親はいない。だが、日本に関する本は皆、この事を、くりかえして書いているから、これは陳腐である。

「日本に関する本は皆、この事を、くりかえして書いている」という点の例証として、イザベラ・バードの記述を挙げておこ
う。

 私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。・・・

 彼らはとてもおとなしく従順であり、喜んで親の手助けをやり、幼い子どもに親切である。私は彼らが遊んでいるのを何時間もじっと見ていたが、彼らが怒った言葉を吐いたり、いやな眼つきをしたり、意地悪いことをしたりするのを見たことがない。


■8.おんぶ天国■

 赤ん坊をおんぶして育てる日本の母親の姿は、特に外国人たちの興味を引いた。英国の初代駐日総領事として安政6(1859)年に来日したラザフォード・オールコックは、『大君の都』の中でこう書いている。

 子供は歩けるようになるまでには、母親の背中に結びつけられているのがつねである。このばあい、子供は母親が家事をするさいにも彼女につきまとうわけだが、彼女の両腕は自由になっている。不幸なことには(これは、見る人によりけりだ)、かわいそうな赤ん坊は、頭が自由になるだけで、そのからだは一種のポケットのようなものにいれられて、それだけでささえられている。その結果、親のからだが動くごとに赤ん坊の頭が、まるでくびが折れそうなほど左右に曲がり、前後にゆれる。

 だが、心配は無用である。母親はよく知っている。子供たちは何十世代にもわたって、代々まさしくこのように育てられてきたのだ。・・・たしかに、赤ん坊はそれをいやがって泣いたりすることをしない。

 このほぼ一世紀後に来日したアメリカの日本文学研究者・ドナルド・キーンは『果てしなく美しい日本』でこう書いている。

 生まれて最初の何年間を、子供はほとんど母親の身体の一部として暮らす。母親はどこへ行くにも子供を連れて行く。彼女はしばしば子供を背中に背負い、特にそのために作られた衣服を着ける。子供が空腹になれば、場所がらも気にかけず、ただちに乳房を吸わせる。日本の母親は息子を独立させることに関心がなく、いつどこでも好き勝手が許されるわけではないことを子供に教えようともしない。
それどころか、彼女の努力は息子の幸福な幼年時代を長くしてやることに集中される。


■9.幸せな共同体を作る知恵■

 1850年の時点で住む場所を選ばなくてはならないなら、私が裕福であるならばイギリスに、労働者階級であれば日本に住みたいと思う。

 アメリカの歴史家スーザン・B・ハンレーの言葉であるが、以上、引用した欧米人の見聞録を読めば、その理由もよく分かる。

 我々の祖先は物質的には豊かではなかったかもしれない。しかし、富はなくとも幸せな共同体を作る知恵を持っていたのだ。

 微笑みをこめて挨拶をする、元気に愛想良く仕事に取り組む、笑いやユーモアを大切にする、子供に愛情を注ぐ。そういう簡単な事が幸福な共同体を作る近道であることを、我々の祖先たちは教えてくれているのである。


カルメンチャキ |MAIL

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