女の世紀を旅する
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2006年10月04日(水) |
傑出した国際派俳優・丹波哲郎が死去 |
丹波哲郎さん(俳優)死去 84歳
アメリカ映画「北京の55日」(義和団事件の際,反乱軍との攻防で外国人租界を死守した日本人駐在武官役で出演)や,日露戦争を描いた映画「203高地」で参謀本部長の児玉源太郎の役で迫真の演技をみせたのが印象的であった。その独特の存在感のある演技は日本映画界で異彩を放っていた。
映画「砂の器」やドラマ「Gメン75」などで知られる俳優丹波哲郎さん(たんば・てつろう、本名丹波正三郎)が06年9月24日午後11時27分、肺炎のため東京・三鷹市の病院で死去したことが分かった。84歳だった。
国際派俳優の先駆けだったのと同時に、陰のある役もこなせる名優でもあった。役柄や明るく豪快な人柄から、多くの芸能人に「ボス」と慕われた、霊界研究に力を注ぎ「霊界の宣伝マン」としてバラエティー番組などでも、幅広い世代に親しまれた。いつも「死ぬのが楽しみ」と話し、9月に入院してからも「現世以上に素晴らしい世界」に向かう楽しみを口にしていた。最期の表情は安らかで、笑みさえ浮かべていたという。
丹波さんは今月上旬に、微熱が出ため入院した。安定していた容体が、死亡する2時間前に急変。心臓マッサージなどを施したが、帰らぬ人となった。長男で俳優義隆(51)は「家族全員に囲まれて苦しまずに眠るように他界いたしました。誰にも迷惑を掛けることなく丹波哲郎らしい最期となりました」とコメントした。遺作映画は写真出演した「日本沈没」、ドラマは日本テレビ系の「高林鮎子シリーズ」だった。
25日夜、都内の自宅には、TBS系ドラマ「水戸黄門」で共演した里見浩太朗、原田大二郎、京本政樹らが弔問に訪れた。丹波さんは97年に亡くなった妻貞子さんの部屋で眠っている。大きな遺影に見守られ「奥さんと霊界で再会しているかも」と話す弔問客もいた。妻を童謡「赤とんぼ」で葬送した後、丹波さんは「荒城の月」で送られたいと希望していた。関係者は「Gメン’75」のテーマ曲を葬儀で使うことも検討している。
最近は体調を崩しがちだった。昨年2月にはインフルエンザと肺炎を併発、虫垂炎も患って一時は危険な状態になった。それでも「実はこの間、死んだんだよ」と臨死体験を笑顔で語り、周囲を驚かせた。森田健作が製作した今年公開の映画「I am日本人」にも出演予定で衣装合わせまでしたが、米国ロケもあったため、降板を申し入れたという。
丹波さんは52年に新東宝に入社。資産家一家に育っただけに、物おじしない異例の新人だった。同年、いきなり主演で「殺人容疑者」でデビュー。60年代は、米映画「太陽にかける橋」への出演、「007は二度死ぬ」でショーン・コネリーと共演した。日本人離れした体格と堂々とした演技で知名度を高めた。
その後「日本沈没」の総理大臣、「Gメン−」のボスなど、組織の重鎮、兄貴分といった役どころで異彩を放ち、多くの芸能人に「ボス」と慕われた。せりふについて言われる不満にも「家庭に仕事を持ち込まない主義」と気にしなかった。陰のある存在から、軽妙な役まで、幅広い演技ができる、日本映画、ドラマには欠かせない俳優だった。出演映画は300作以上。豪快でおちゃめで、演技派。貴重な俳優がいなくなった。
丹波さんが初めて霊界研究の扉を開いたのは約40年前。親友のがん闘病がきっかけだった。その死は壮絶で悲しく、生に対する執着の「醜さ」に気が付いた。ふっと思ったのが「生命が永遠であるという立場に立っていれば、たじろがないのではないか」ということだった。永遠の命。誰にでも訪れる死を「その先に輝かしい世界が待っている」と逆説的にとらえたときに「死」が楽しみに変わったという。
「死後に素晴らしい世界が待っていると思えば、心に余裕ができる。思いやりの心が生まれる」。人間界を修行の場ととらえ、この世での過度の欲望や執着を戒めた。「自分で命を絶った者には、現世以上につらい世界が待っている」と自殺を思いとどまらせ、霊界を「金も存在しない。家事や雑事もない」と、そのことに苦しんでいる人たちに現実に絶望するなと説いた。
霊界宣伝のために、手を尽くした。著書は約70冊に及び、総発行部数は250万部を超える。映画は「大霊界」「大霊界2」の2作で300万人を動員する大ヒットを記録。映像では表現できないこともあると、舞台化まで行った。自分という霊界の語り部が去った後のことも考えていた。東京・杉並区の自宅を霊界博物館にすることを公言していた。
丹波さんは霊界のことを、分かりやすく具体的に語っている。「地上界にあるものは何でもある」「目の見えなかった人が1000メートル先のものが見える」「霊人は眠らない」「霊界の家は4畳半から6畳程度」。そして必ず「死後の世界はばら色。だから何も心配をするな」と続けた。霊界の宣伝は、だれもが迎える死は、必ずしも最後じゃないことを伝えている。
●関係者悲しみの声
Gメン75などで共演の俳優夏木陽介(70) Gメンで共演していたとき、フランスの海外ロケにもマージャンパイを持ってきたんです。メンバーが集まらないと「この通り、やってください」と土下座するんです。やるのは良いけど、歌いながら考えて打つから遅いんですよ。文句を言っても「これはちょっと考えてから…」なんて調子です。でも、とてもウマがあった。寂しい限りです。
山田洋次監督(75) 「15才−学校4−」「たそがれ清兵衛」の2作品で一緒に仕事ができたことが、懐かしい思い出になってしまいました。わがままだとか、セリフを覚えないとかいううわさが冗談交じりに伝えられていたけど、僕にとっては、誠実この上ない、生粋の映画人であり、華やかなスターでした。
TBS系ドラマ「ホテル」で共演した俳優高嶋政伸(39) 丹波さんからは、芸能界を生き抜くために「ケンカしない」「ケガしない」「ケチらない」という3つの格言をいただきました。この教えは、ずっと心にあり、この先も宝物になると思います。
里見浩太朗(69) 6月末に見舞いに行ったのが最後でした。手術直後で丹波さんは「エレベーターに乗ったら、花がいっぱい咲いていた。霊界が見えた」と言っていました。「パパ」「浩太朗」と呼ぶ間柄で、懐の広い人でした。
歌手和田アキ子(56) 丹波さんは私のことを「アコ」って呼んでくれて、私は丹波さんを「ボス」って呼んでました。コントですけど、私の初めてのベッドシーンの相手もしてくれました。その時、「おれはアコの初めての男だ」と言って、笑ってくれたのが思い出です。久しぶりにお会いしても、ずっと会っていたように接してくれて本当に尊敬できる先輩でした。心よりお悔やみ申し上げます。
「砂の器」で共演した森田健作(56) 豪快な人で「砂の器」で共演した際には、若い僕に「まあ、自然にやろうよ」と声を掛けてくださいました。俳優としての大きさを認識しました。
「Gメン75」で共演した若林豪(67) 奥さんの貞子さんが、マージャンばかりしている丹波さんを「ちゃんと食事もするのよ」なんてしかるんです。まるで息子に言い聞かせるみたいに。それを丹波さんはおとなしく笑顔で聞いているんですね。今は天国でまた夫婦仲良く寄り添っていることと思います。
●悼む
自由奔放、ムードメーカーで愛称通りの「ボス」だった。「空手に剣道で体を鍛えていたから、若者には負けないよ」。95年、NHK朝の連続テレビ小説「走らんか!」の収録の合間に新人だった三国一夫に腕相撲であっという間に勝利した。割りばしを空手チョップで割る特技を見せてもらったこともある。筋肉質の手足を触らせてもらったが、プヨプヨ感がまったくなく、70過ぎたおじいちゃんだと思えなかった。
キリリとした演技と違い、プライベートはいつも目尻が下がっていた。道で出会った子供にも気軽に握手に応じていた。「セリフを覚えてこない」という評判だったが、ボスの台本の自分のセリフは蛍光マーカーでチェックされていた。
子供のような無邪気さで、最近は「おもちゃのピストル射撃」にはまっていた。自宅の庭に手作りの標的を置き、射撃練習。プラスチックの弾が庭に散乱していた。車の運転が好きで、現場には自分で運転してきた。シルバー運転のキャンペーンで教習所で模範運転をしたときは「教習所の踏切は、本当に電車なんか来やしないんだから」と一時停止せずに暴走し、教官を困らせたこともあった。
霊界の話になると真顔になった。恋愛相談には「結婚、恋愛の縁は決まっているもの。告白できないなんて迷っていても、縁は決まっているんだから、迷って悩む分だけ時間の無駄だよ」と、迷いを断ち切ってくれた。「自殺は1番ダメ。心中であの世で一緒になりましょう、なんて言ってもなれるわけがない」とも付け加えた。霊界を宣伝していても、「死」を軽くは考えていなかった。
最後に電話で話したのは昨年5月。自宅で療養中だったが「夏は大好きだし、体力付けてまた頑張るよ。今もどじょうを食べてるんだ」。今年も夏を過ぎて、丹波節が聴けるのを楽しみにしていたが、かなわなかった。口癖は「霊界の宣伝マンになるために俳優になった。向こうから通信があるけど、素晴らしい所だよ」。ボス、研究通りの世界でしたか? 今、直接聞けないことが残念です。【岩田千代巳】
●007でコネリーと共演ミフネに続く国際スター
丹波さんは、三船敏郎さんに続く国際スターだった。海外デビューは、61年のハリウッド映画「太陽にかける橋」。日本人外交官の妻の物語で5番手ぐらいだった。評価を確立したのが、64年の米英合作映画「第七の暁」。マレー独立を舞台に男の友情を描いた佳作だが、ウィリアム・ホールデン演じる主人公の友人という重要な役に抜てき。特に欧州で高く評価された。日本が舞台になった67年の英ヒットシリーズ「007」第5作では、日本の情報機関のボス「タイガー田中」を演じ、ショーン・コネリーふんするジェームズ・ボンドと共演した。69年のイタリア映画「五人の軍隊」でも、メキシコの村人を助ける主役5人組の1人「サムライ」を演じた。
●「新宿一帯が我が家」の大金持ち
丹波さんは、東京屈指の大地主の三男に生まれた。本人は、家系図の最初は「後漢12代霊帝」で、平安時代に医学書「医心方」を著した丹波康頼の名前もあるとし「日本で薬草を栽培するために帰化し、朝廷から丹波の土地を拝領して姓となったらしい」と話していた。祖父敬三は大正時代を代表する薬学者で東大名誉教授。「数々の特効薬を開発し、世界をまたにかけてもうけた上、薬事法をつくって勲章(正三位勲一等瑞宝章)をもらい、男爵になった」(丹波さん)という。この祖父が駒込に広大な土地と屋敷を持っていたが、さらに新宿、大久保の一帯を「ツツジがきれいだったから」と全部買ったとのエピソードも紹介。父親は陸軍薬務官から日本画家になった。
「私も子供の頃から、お金で苦労することがなかった。おもちゃ屋でもお菓子屋でも、指差せばなんでもくれる。あとで家に請求がいったんだろう」と振り返っていた。
◆丹波哲郎(たんば・てつろう)本名:丹波正三郎 1922年(大正11年)7月17日、東京生まれ。中大法学部在学中、学徒動員。復学後、GHQの通訳を務める。中大卒後、新東宝に入社し、52年に映画「殺人容疑者」でデビュー。ギャングなどの悪役を主にこなした。59年にフリーとなり映画「砂の器」「007は二度死ぬ」「二百三高地」など国内外で活躍。TBS「キイハンター」「Gメン75」など多数のドラマに出演。「死者の書」「霊界旅行」などの著書がある。趣味はマージャン。特技は武芸で剣道6段、空手7段。血液型A。
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