女の世紀を旅する
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2006年09月01日(金) |
理想的な死に方 : 堺屋太一 |
理想の死に方:堺屋太一
堺屋太一(さかいやたいち) 昭和10年生まれ(71歳)
元官僚、作家、評論家、政治家、内閣特別顧問。早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授、東京大学先端科学技術研究センター客員教授。財団法人2005年日本国際博覧会協会顧問。
大阪市生まれ。本名は池口 小太郎。大阪府立住吉高等学校を経て東京大学工学部入学後、経済学部へ転入し卒業。その後通商産業省入省。「堺屋」の由来は、先祖が大阪府堺市から谷町筋に移住し、屋号とした商店に由来する。
通産省時代に万博開催を提案、1970年の大阪万博で成功を収める。その後、沖縄開発庁に出向、沖縄海洋博も担当した。1978年に退官。退官した後も、イベント・プロデューサーとして数々の博覧会を手掛る。愛知万博でも最高顧問であったが、お祭り色の強い博覧会を考えた堺屋と長期的計画を望んだ地域の意図が合わず、2001年6月28日に辞任した。
近未来の社会を描いた小説『油断!』で小説家としてデビュー。他に有名な著作として小説『団塊の世代』がある。この作品より、1940年代後半のベビーブーム世代が「団塊の世代」と呼ばれるようになった。また、『峠の群像』『秀吉』は大河ドラマの原作となった。
東郷青児美術館大賞の受賞歴を持つ池口史子(ちかこ)は妻。「もう一人の愛する家族」はシーズーの“悟空”。趣味は女子プロレス観戦で、草創期からの熱心なファン、特に尾崎魔弓のファンとして有名である。
小渕恵三政権・森喜朗政権の時代に経済企画庁長官を務めた。インターネット博覧会(通称インパク)の発案者としても知られる。
2006年現在、日本経済新聞でチンギス・ハーンを描いた小説「世界を創った男 チンギス・ハン」を連載中
堺屋太一の「理想的な死に方」
●「面白い人生」といいたい
「おもしろい人生でした。喜劇もあった,悲劇もあった。スリルも,アクションも,スペクタクルもありました。ないのはメロドラマだけですよ」
エリサベート・マイジンガーさん(通称ベート)が楽しそうな笑顔でいった。1986年5月末,場所はドイツ,ハルツ山塊の西南麓の山村,時刻は午後8時近いが,「鉄のカーテン」の彼方に沈む太陽はまだ残照を放っていた。ベートさんの顔は痩せこけていたが,知的な美貌の昔を偲ぶことができた。腰掛けた椅子の背に吊るされたモルヒネ点滴の瓶が,彼女の死期が近いことを示していた。ベートさんは既に十年近くも脳腫瘍と戦い,自らも「私の寿命はせいぜいあと百日」といい切った。
ベートさんと知り合ったのは私が19歳の時,彼女は31歳だった。それから32年間,はじめの6年半はベートさんが日本にいたのでしばしば会えた。残りの25年間は手紙と電話と相互の旅行の度にお目にかかった。
ナチスの戦犯の娘だったベートさんは,様々な苦労をした。 「私の人生は苦労の百貨店みたいなものです。貧困,孤独,身内の死,周囲の憎悪,苛め,屈辱,何度もの失望。それに今の病苦。でも,これだけ経験できたのはおもしろかった。いい方も沢山あったから」
ベートさんはいつも,自分の人生をおもしろく語ってくれた。 終戦直後は進駐軍のメイドをしながら砂糖とペニシリンの闇で稼いだ。朝鮮戦争(1950〜53年)では英豪軍に志願して軍医の資格を得た。私と知り合った頃には赤坂に土地を買って儲けた。ドイツに帰ってからは山村で病院を営みながら金相場やアフリカの油田取引で財をなした。そして最後には金融デリバティブで巨富を築いた。自分用のお金儲け金言集を作って教えてくれたが,実によく当たった。
ベートさんの人生にメロドラマがなかったかどうかは分からないが,いつも自分を,もう一人の自分の目で眺め楽しんでいた。
「私の遺産管理する財団法人には,こういっておきます。私の死後1年以上2年以内に株を売って国債にしなさい。多分その頃が天井一歩手前です。もう一つ鉄のカーテンが消えて,ここも賑やかになるでしょう。東ヨーロッパの社会主義政権は,すでに文化的崩壊過程に入っています。この二つ,当たるかどうか楽しみです。」
ベートさんの予言は二つとも当たった。ただ,彼女の死は予言より二カ月ほど遅かった。
人間にとって,「理想的な死」などありえない。敢えていえば,「理想的な生の終わり方」だろうか。
人生は老いると共に「夢」は限られる。子供の頃には,限りない可能性があり,将来の夢を様々に描くことが出来た。私の場合も,プロボクサーから建築家まで考えた。ベートさんとはじめて出会った頃は受験浪人で,うまくいかなければ,材木屋をやろうと考えていた。それが大学を出て官僚になり,40歳で作家になった。子供の頃にも思いつかなかった職業である。
年とともに「夢」の範囲は縮まるが,それに併せて心配の幅も減る。子供の頃は試験の成績から両親の顔色までが心配だった。
過ぎし日を振り返ると自分の顔が見える。つまり自分を観る観客になれる。だから思い出は美しい。人は喜劇に笑い,悲劇に泣き,スリラーにどきどきし,アクションにハラハラする。だが,どれもおもしろい。
「死」を悲劇でなくするためには,自分の人生を徐々に客観的に眺める位置を創るべきだと思う。自分が自分の人生の観客だったら,「おもしろい人生だった」といえる。
私のような,まだまだ夢も心配も多い未熟者が,「おもしろい人生だった」といえるまでには,あと何十年もかかることだろう。
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