女の世紀を旅する
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2006年07月30日(日) 2006年前半期 著名人〈おくやみ〉 5〜7月

2006年前半期 著名人〈おくやみ〉








●7月1日  橋本龍太郎元首相が多臓器不全、敗血症性ショックのため死去

 橋本龍太郎(はしもと・りゅうたろう)元首相が06年7月1日、多臓器不全、敗血症性ショックのため、東京・新宿の国立国際医療センターで死去した。68歳。先月4日、腸管虚血と診断され、腸の大部分を切除する手術を受け入院していた。早くから「自民党のプリンス」と呼ばれ、首相に上り詰めたが、経済政策の失言による参院選惨敗で退任。最後は日本歯科医師連盟(日歯連)からの1億円闇献金事件で政界を引退した。波乱の政治家人生だった。

 6月4日、腸への血流量が低下する「腸管虚血」と診断され、翌5日に腸の大部分を切除する手術を受けた橋本氏は、手術後、1度も意識を回復することなく、息を引き取った。
 二男の岳(がく)衆院議員(32)によると、手術前「おれが講演をやらなきゃ」と話したのが最後の言葉だった。遺体は病理解剖された。弟の橋本大二郎高知県知事は「兄は医療や厚生行政に長く携わった。日本の医療に貢献するメッセージを残してくれた」。「私人としての(家族との)暮らしが少なく、最後は自分の手で送ってあげたい」という久美子夫人ら家族の意向で葬儀、告別式は近親者だけで行う。
 「自民党のプリンス」として頭角を現し、蔵相や幹事長など要職を歴任した橋本氏は、甘いマスクに流し目で女性から「龍さま」と慕われた。剣道着姿の「龍ちゃん人形」や「龍ちゃんプリクラ」も設置される人気だったが、節目では女性や人事、金の問題につまずいた。

 89年、総裁選出馬を期待されたが、宇野政権の幹事長として大敗した参院選の責任と、女性問題が重なって見送った。
 96年1月、首相の座に就いたが、97年、内閣の最重要課題だった行革担当のトップ総務庁長官に、ロッキード事件で有罪が確定した佐藤孝行氏を起用。世論の集中砲火を浴びて10日余りで更迭した。中国政府の女性通訳との関係も報じられ、女性が情報部員とされたため「国家機密にかかわる問題」と、野党が衆院予算委員会で追及する事態になった。

 98年の参院選前には恒久減税の実施に言及しながら、選挙戦で「言っていない」と迷走。株価は下落し、自民党は惨敗。引責辞任に追い込まれた。
 表舞台への復活を懸けて01年の総裁選に出馬したが、小泉純一郎首相に大差で敗北。04年には日歯連からの1億円献金隠し疑惑が発覚し、派閥会長を辞任した。政治倫理審査会では「(記憶はないが)事実なのだろうと思う」と弁明し、与野党から強く批判された。地盤を岳氏に譲り、昨年8月、追われるように政界を去った。「どうも純ちゃん(小泉首相)との一戦以降、負け戦が続いているな」と自嘲(じちょう)気味に漏らしていたという。



※ 橋本氏訃報に小泉首相悲痛…


 カナダ、米国訪問を終えた小泉純一郎首相(64)は1日午後5時53分、政府専用機で羽田空港に到着すると、その足で東京・南麻布の橋本元首相宅に向かい、弔問した。米国では故エルビス・プレスリー邸を訪ね「夢がかなった」と大はしゃぎだった首相だが、同じ慶大出身で2度総裁選を戦った橋本氏の訃報(ふほう)に一転、悲痛な表情。「悲しみの念を禁じ得ない」との談話を発表しただけで、報道各社のインタビューには応じなかった。
 プレスリー邸での首相は、遺品のサングラスをかけ、ギターを持つ手を高く振り上げるプレスリーお得意のポーズを披露。娘のリサ・マリーさんの肩に手を回しつつ「強く抱き締めたい」と英語で歌の一節を語りかけるパフォーマンスをみせ、案内役のブッシュ米大統領(59)を「首相がプレスリーを愛していることは知っていたが、ここまでとは思わなかった」と驚かせた。
 米3大ネットワークも驚いたもようで「首相らしからぬ(パフォーマンス)」(NBCテレビ)「これは本当に起きたこと?」(CBSテレビ)と視聴者の多い夕方のニュースでそろって報道する異例の扱い。一夜明けた米紙ワシントン・ポストもサングラス姿の首相の写真を1面で大きく掲載し「大統領にとって恐らく最も記憶に残る楽しい外国要人との旅行だったろう」と伝えた。
 しかし、帰りの機中で伝えられたのは橋本氏の訃報だった。初の総裁選挑戦となった95年は大敗したが、01年には「自民党をぶっ壊す」と叫んで圧勝した。自民党を支配してきた経世会と派閥政治を標的とすることで、人気と権力を保ち続けてきた首相は、因縁ともいえる橋本氏が9月の自らの退陣を前に逝ってしまったことに険しい表情のまま。報道各社のインタビューには応じず「21世紀のわが国のあるべき姿を展望し、中央省庁再編や介護保険制度の創設、金融システム安定化などに尽力した。優れた指導者の訃報に接し、悲しみの念を禁じ得ない。心から哀悼の意を表します」との談話を発表しただけだった。

※ TV発言が退陣のきっかけ…田原総一朗氏/悼む
 橋本さんが亡くなったと聞き、今、忸怩(じくじ)たる思いでいます。もう1度、食事でもしながらゆっくり話をしたかった。互いに好きだった論争をしたかったのに。
 98年7月5日放送のテレビ朝日「サンデープロジェクト」で、私は橋本さんと相対しました。その2日前、橋本さんは当時の世論に応えるように恒久減税の実施を口にしていました。しかし、番組で私が「財源は?」と問うと、「恒久減税という言葉は使っていない。税制改革の論議を進めていく」とはぐらかした。さらに問い詰めると、絶句した。テレビカメラは残酷でその汗びっしょりの苦しそうな表情をとらえていました。翌日、新聞はこのやりとりをトップで報道。「恒久減税は口約束で実現しないのでは」という疑念が世の中に広がったのです。
 この発言のブレが原因で自民党は参議院選挙に敗北し、橋本さんは退陣に追い込まれました。番組放送後、政治家や官僚が電話してきて「橋本さんがかわいそうだ」と言われました。
 思えば橋本さんは気の毒な人でした。小泉さんよりも先に、財政再建を打ち出し、消費税を3%から5%に上げた。素晴らしい行動力だったが、北海道拓殖銀行がつぶれ、金融パニックと不況が襲ってきた。大蔵省は知らんぷり。それゆえに恒久減税待望の世論が起きた。財源がないのに…。選挙のために、それに応えようとした橋本さんは本当に苦しかったはず。ご冥福をお祈りいたします。(ジャーナリスト)

※ 校舎をロープで登り下り…作家安部譲二氏/悼む
 同級生だったのは、昭和25年のことだよ。そのころの橋本と一緒に写っている写真をいくら探してもないんだよ。なぜか。いつもあいつがカメラマンをしてたからなんだ。終戦直後の中学生。あいつしかカメラなんて持ってなかったんだ。でも、いつも現像して写真をみんなにくれたんだよ。
 麻布中学時代、あいつは山登りばかりしていて、皆にあきれられていたほどだった。校舎の屋上からロープをおろして、よじ登ったり下りたりしてたんだよ。普通じゃないよ。僕が「登山なんて勝ち負けのないことやって、何が面白いの?」と聞くと、橋本は言ったものさ。「頂上まで行くと、下で雲が動くんだ」。今、サッカー見てても、選手が審判にすぐ「痛い」とアピールするけどさ、橋本は登山みたいな、そんなアピールとかレフェリーとかがない世界に引かれたんだと思う。
 橋本はおれの斜め後ろの席だった。あいつはおれの答案用紙を全部写して、それで進級したんだから。それで総理にまでなるんだからすごいよな(笑い)。(談)




●5月30日 カンヌ最高賞2度受賞した映画監督の今村昌平さん死去

 日本人監督としてただ1人、カンヌ国際映画祭のパルムドール(最高賞)を2度受賞した今村昌平(いまむら・しょうへい)さんが06年5月30日午後3時49分、転移性肝腫瘍(しゅよう)のため、都内の病院で死去した。79歳。人間の業や欲望を重厚かつユーモラスなタッチで描き、「黒い雨」「復讐するは我にあり」など多くの名作を発表。日本で初の映画専門学校を設立するなど後進育成にも尽力した。カンヌでは「楢山節考」「うなぎ」が最高賞を獲得。日本映画の力を世界に知らしめた巨匠がまた1人、静かに逝った。

 世界的巨匠は家族に見守られながら静かに息を引き取った。都内の自宅前で取材に応じた二男のひろ介さん(43)は「最期は痛みもなく、眠るように亡くなりました」と語った。

 今村監督は昨年6月、下行結腸がんの手術を受けた。3カ月後に肝臓転移が発見された。長年、糖尿病を患っていたこともあり、体調は悪化するばかりで入退院を繰り返した。今年4月11日に風邪をこじらせて緊急入院。食事も取れない状況になり、1週間前から意識不明に陥った。呼吸も苦しそうだった。それでも最期は穏やかな表情を浮かべていたという。51年間連れ添った妻・昭子さん(72)は亡きがらに「お疲れさまでした」と声を掛けた。

 大学時代からの親友も訃報(ふほう)を聞いて病院に駆けつけた。俳優の北村和夫は「1週間前に見舞いに来たばかり。今は何も話したくない」と唇をかみしめたまま絶句。小沢昭一は「安らかな顔でした」と話すのが精いっぱいだった。

 最後まで映画製作に対する執念が衰えることはなかった。戦争中の新宿の遊郭に生まれ育った少年を描く「新宿桜幻想」の映画化を進めていた。脚本は10年前に書き上げた。撮影もわずかだが始めていたが、資金が集まらずに中断した。それでも脚本の手直しなど、闘病生活に入る直前まで配給会社と打ち合わせを重ねた。「うなぎ」に似た雰囲気の新作も構想していた。

 長男で映画監督の天願大介さん(46)は「がんと知った時から覚悟はしていたと思う。満足いく人生だったと思う」と話していた。

※ 今村監督という人
人は「鬼のイマヘイ」と呼んだ。文字通り、映画に心血のすべてを注いできたからだ。カンヌ映画祭で2度の最高賞は世界で5人だけだが、実生活は借金に苦しめられ、名声とはほど遠かった。原因は製作資金集め。一時は億単位まで達し、2年前でも「今も千万単位」と明かしていた。自宅も1度差し押さえられた。昭子さんが「サザエさん」などアニメの彩色の仕事で家計を支えた時期もあった。それでも映画をつくり続けたのは「人間のこっけいさ、偉大さ、純粋さ、醜さを追い続けたい」という信念があったからだ。

 原点は戦後の闇市。多感な青春期に「人間が本音をさらけ出し生きている解放区に見えた」と感じ、黒沢明監督「酔いどれ天使」の三船敏郎さんの人間くさい演技に魅了された。人間の業や欲望に対する視点は初期の「果しなき欲望」「豚と軍艦」などで存分に発揮され、重喜劇と評価された。その後も一貫して根源的な生や性をテーマにし、「復讐するは我にあり」など次々に傑作を生み出した。撮影も、納得するまで粘り、決して妥協しなかった。

 生きざまは晩年まで揺るがなかった。01年のカンヌ映画祭で、フランス紙から「人間くさい助べえじじい」と評されたことを何より喜んだ。日本映画学校では「人間の面白さ、薄汚さをよく観察しろ」と指導。債権者会議に呼び出され、ペコペコ頭を下げる自分の姿を「映画にしたら面白い」と考えてもいた。

 長男の天願監督は「あの欲望の強さは、僕らの世代にはないもの。映画はもうからないということを学んだ。だから自分も幻想を持たずにつくり続ける」と話した。「人間」にとりつかれた「映画の鬼」は、次世代に受け継がれていく。

※ 関係者悲しみの声
 三国連太郎(83) エネルギッシュで、粘り強くて、自分を見つめて生き抜いた人でした。彼を超えるような監督はもう出てこないんじゃないでしょうか。「神々の深き欲望」では、石垣島で何カ月も一緒に暮らしました。「復讐するは我にあり」では、納得するまで撮り直すしつこさにあきれたことも。でも、それもすべて、ものづくりへの誠実さの表れだったと思います。けんかもしたけれど、日本の宝だと僕は思っていました。

 緒形拳(68) 4月27日にご子息から電話があり、病院に駆け付けました。監督は眠っていましたが、「オガタ」と目を開けて気が付かれたのですが、また眠りました。私にとって、監督といえば今村監督です。いつもにぎやかな現場で、しかし、ビシーッとしていて、あー男の仕事場だと思っていると、作品は見事にたくましい女の話でした。「よーい、スタート」という声にハリがあって、色気があって、格好良かったです。楢山節考の撮影初日に「何も撮るものがないので、ババア捨てたラストから撮る」「ラスト? どんな顔してたら良いのですか?」と聞くと「僕も分からないので、ボーッとしててくれ」と答えられた。つながってみたら、そのシーンがイチバン良かったのです。監督の力わざです。

 柄本明(57) 10日ごろに役所広司と見舞いに行き、奥さまから余命が短いことは聞かされていました。その日も、話しかけるとこっちを見詰め返してくれ、すごいカリスマを感じました。カンゾー先生は、三国連太郎さんが負傷降板されて僕が主役になったんです。現場では、監督のあまりの気迫に怖くなったのを覚えています。目が強くて、何でも見抜かれている感じもしました。これで20世紀巨匠の時代が終わった感じもします。あとは次の世代が、その遺産をどう引き継ぐかでしょうね。

 役所広司(50) 先月、カンヌ映画祭に出発する前に監督とお会いし、その報告と「うなぎ」の時のカンヌの思い出を話しました。今回のカンヌでも「今村監督の映画はないのか?」という質問をたくさん受け、今村映画の根強いファンが多いことを実感しました。監督の海外の記者に対する堂々とした受け答えは、そばにいて頼もしかった。独創的で力強い今村映画を見られないのは、寂しい限りです。監督の現場を経験できたことは、俳優として大きな財産です。たくさんのことを学びました。残念です。もっともっと今村さんの映画を見たかった。監督は日本映画の宝物です。

 坂本スミ子(69) 「楢山節考」のロケは、雪の降るのを待ち、近くの田んぼでできた米をもちにしたりと、自然の中で行われました。人間が昔の野性の時代に戻って、墨絵のような世界に住んでいた感じ。将来に大きなテーマを残してくれました。今村さんは、おりん役の私を見初めてくれたようなところがありました。(役作りのために)前歯を抜いてボロボロの服を着た私に、とても優しい監督でした。

 市原悦子(70) (都内でテレビ番組収録中)雨と雷で一時休んでいたところ、スタッフに日本映画学校を出た人がいて、今村先生の話をしていたんです。そこで、マネジャーから亡くなったと聞いてビックリしました。先生は物づくりのすがすがしさを持っていらっしゃる方。役者が裸にされて、きれいに、本来の姿になれる人。これから何かを撮るとうわさを聞いたら、すぐに出させて欲しいと言おうと思っていました。残念です。

 映画評論家白井佳夫さん(74) 戦後に新しい日本映画をつくろうと、信じられないぐらい頑張った巨匠だった。「撮影所のセットなんて使うからうそになる」に始まって、自然な芝居のためにピンマイクをいち早く使ったり、使い古されたアングルを嫌い、カメラの位置を「後から来る助手が最初に荷物を置いたところにする」と言いだしたり。気に入らないものは撮らず、映画への執念は壮絶だった。こんな人はもう2度と現れないだろう。

 映画監督の新城卓氏(62) 師匠として目標にしてきました。初めてお仕事させていただいたのは、監督が脚本を担当した「東シナ海」で、助監督見習いをしました。その後「復讐するは我にあり」でチーフ助監督を命じられ、天命だと思いました。自分が監督した「沖縄の少年」では、脚本やラッシュを見てもらったりして、アドバイスを受けました。亡くなっても、お前には負けないと天国でおっしゃっているのではないかと。新作「俺は、君のためにこそ死ににいく」をお見せできなくて残念です。

※ 映画評論家佐藤忠男氏が今村監督悼む
 優れた人材を育て日本映画界に送り込みたい−。そんな情熱で今村監督が75年に設立した専門学校が、日本映画学校(川崎市)だった。億単位の負債を抱えるなど存続危機もあったが、04年まで校長、理事長を歴任し教育に力を注いだ。病床でも学校の話ばかりして心配していたという。96年に校長を引き継ぎ、志を託された映画評論家佐藤忠男さん(75)が、巨匠を振り返った。

 今村昌平の映画は戦後の焼け跡闇市に立った感慨から出発している。負けるものか、タフになろう、という気持ちである。実際、今村監督は外見も行動も作品も実にタフだったが、肉体的にもタフであろうとして少々大食だったことが健康には良くなかったかもしれないと、いまさらながら惜しまれる。

 作品の表現のタフさは、それが今村作品ならではの魅力だったが、一面ではしばらく外国人を戸惑わせた。あまりにもあけすけだったからである。初期の代表作である「豚と軍艦」と「赤い殺意」には、どちらもレイプの被害を受けた女主人公が、なぜかそのあと猛然にタフになって、男たちの欲望など、け散らすような力を発揮するようになるというエピソードがある。

 いい例えではないかもしれないが、戦後の日本の占領は、アメリカによって日本文化がレイプされたようなものだったと言えるかもしれない。そんな戦後の経験がこういうかたちをとって、今村昌平の映画では表現されたのだと私は思う。

 今村作品というと、性的な表現のあけすけさが評判になることが多かったが、それは単なる好色とは違う。いわば民族的な重い体験の形を変えた表現なのである。だからやたらと重厚なのだ。

 今村昌平の業績で忘れてはならないのは、後進の育成のために今の日本映画学校をつくり、30年にわたって苦労して教育をやってきたことだ。今では卒業生たちは日本映画の製作現場のほとんどあらゆるところにいる。彼らが立派に今村昌平の志を受け継いでゆくだろう。

※ 「日本映画の伝説」フランス文化相が声明
 フランスのドヌデュードバーブル文化・通信相は30日、「今村氏は日本映画の生きる伝説だった。死を深く悲しむ」との声明を発表した。今村氏を「60年代に生まれた日本版ヌーベルバーグの父の1人」と位置付け「その作品はいずれも真の芸術に迫っていた」と強調。「カンヌの一部だった」と悼んだ。カンヌ映画祭のジル・ジャコブ会長は「世界の映画の巨匠」とたたえ「つらい」と漏らしたという。

【今村昌平(いまむら・しょうへい)】
1926年(大15)9月15日、東京都生まれ。早大時代に黒沢明監督「酔いどれ天使」を見て映画監督を志す。51年に松竹入社。小津安二郎、野村芳太郎らの助監督を務め、54年に日活に移籍。58年監督デビュー作「盗まれた欲情」でブルーリボン新人賞を受賞。71年からテレビの演出も手がけたが、79年、9年ぶりの映画復帰作「復讐するは我にあり」がヒットし、ブルーリボン賞作品賞などを獲得した。02年には米同時多発テロを題材にした短編「セプテンバー11」も発表。55年に撮影所勤務の昭子夫人と結婚。長男は91年に監督デビュー。


カルメンチャキ |MAIL

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