女の世紀を旅する
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2006年07月26日(水) |
2006年前半期 著名人〈おくやみ〉 3〜5月 |
2006年前半期 著名人〈おくやみ〉3〜5月
●5月29日 岡田眞澄さん(俳優)が食道がんのため死去
二枚目俳優岡田眞澄(おかだ・ますみ)さんが06年5月29日午前4時5分、食道がんのため都内の病院で亡くなった。72歳だった。岡田さんは昨年6月に食道がんで入院し、摘出手術を受けて8月に退院。9月に仕事復帰したが、直後にリンパ節への転移が判明。家族との時間を過ごしたいとの思いから自宅療養しながら今年3月まで仕事を続け、その後再入院した。今日30日に親族だけの密葬を行い、お別れの会を6月2日午前10時から港区南青山2の33の20の青山葬儀所で行う。喪主は妻恵子(けいこ)さん。
俳優生活53年の長い歴史に幕を閉じた。恵子夫人(44)、まな娘の朋峰(ともみ)ちゃん(7)ら家族や親族にみとられながら、岡田さんは静かに息を引き取った。
1年に及ぶ闘病生活だった。昨年6月中旬に食道がんと判明し、すぐに都内の病院に入院。約9時間、計79針も縫う摘出手術を受けた。がんを公表したのは手術から1か月後の7月23日で、岡田さんはファクスで「病名に一瞬ドキリとしましたが、発見が早かったことで落ち着いて治療に専念することにいたしました」とコメントした。8月中旬に退院し、9月には68年から司会を務める「ミス・インターナショナル世界大会」のレセプションで復帰。体重は10キロも減ったが「選挙じゃないけれど、当選発表のような気持ち」と手術成功を振り返った。
しかし、直後にリンパ節に転移したことが分かった。そのため、出演予定だった今年1月のミュージカル「グランドホテル」を降板したが、入院することなく、家族や友人との時間を過ごしたいと普段通りの生活を送りながら自宅療養をしていた。日本テレビ系「午後は○○おもいッきりテレビ」は最後となった2月24日まで復帰後も数回出演したが、関係者は「やせていたけれど、スタジオでは元気に声も出ていた」と話す。気丈に3月中旬までテレビ出演を続け、その後再入院した。
岡田さんは画家岡田稔氏とデンマーク人の母親の間にフランスで生まれた。戦後まもなく、実兄の故E・H・エリックさんの芸能界入りをきっかけに、東宝ニューフェイスに合格。ダンディな二枚目俳優として活躍した。特にやさしく出場者をエスコートする「ミス−」の司会はライフワークとし、今年9月も務める予定だったという。
岡田さんは女優藤田みどり(59=94年離婚)との間に俳優岡田真善ら3人の子供をもうけ、再婚した恵子夫人との間に朋峰ちゃんが誕生した時は「愛はバイアグラを超えた」と手放しの喜びようで「成人するまで頑張りたい」と話したが、その願いはかなわなかった。岡田さんの遺志で親族だけの密葬を30日に行い、6月2日に青山葬儀所で「お別れの会」が行われる。
※ 関係者悲しみの声 俳優小林旭(67) 自分がスターと呼ばれる前から共演していました。映画「完全な遊戯」(58年)で共演したのが最も印象に残っています。同窓生のような仲間が亡くなるのは、とても悲しいです。
俳優津川雅彦 映画「狂った果実」で共演したのが最初で、背が高いファンファン(岡田さんの愛称)の肩にぶら下がって懐いていました。スタイリッシュで格好良くて、本物のプレーボーイ。駄じゃれが大好きで、一緒にいて楽しかったですね。ハーフということで苦労も多かったでしょうが、決して表には出さなかった。もうあの駄じゃれが聞けないかと思うと残念です。
キャスターみのもんた(61) 「おもいッきりテレビ」がスタートしてから20年近くの付き合い。食道がんの手術後も話すのがつらそうだった。おしゃれでダンディーで語学に堪能で女性にモテて、戦後日本の男のおしゃれ、美学そのものの人。「お座敷でのんだことがない」というので赤坂の料亭にお連れしたら楽しそうに喜んでくれてね。僕に「健康のため」ってジムを紹介してくれたのも岡田さんだった。ショックだけど、岡田さんのダンディーさを参考にしていきたいと心から思う。
「サルヂエ」で共演した藤井隆(34) 毎回大きな手で握手しながら、優しい言葉をかけてくださいました。「またいつか」と言ってくださったのに、ご一緒させていただけないのが残念です。ご冥福をお祈りいたします。
岡田さんはデビュー当初から「ファンファン」と呼ばれた。これはフランスの俳優ジェラール・フィリップが52年の映画「花咲ける騎士道」で演じた役名から「ファンファン・フィリップ」と呼ばれたことに由来する。53年、東宝ニューフェースとしてデビューした岡田さんは、伝説的美男俳優にあやかり周囲から「ファンファン」と呼ばれるようになった。88年から放送されたフジテレビ「とんねるずのみなさまのおかげです」の人気コーナー「仮面ノリダー」では、世界征服をたくらむファンファン大佐を演じて若い層からも人気を集めた。岡田さんの風ぼうと明るい性格にふさわしい愛称だった。
【岡田眞澄(おかだ・ますみ)】 1933年(昭8)10月22日、フランス生まれ。父は日本人画家でデンマーク人女性との間に生まれる。39年に日本移住。52年に日劇ミュージックホールで初舞台。翌年に東宝ニューフェース、54年に日活入り。映画「太陽の季節」「狂った果実」「幕末太陽伝」や舞台「リア王」「エリザベス」などに出演。プレーボーイとして知られ、60年にパントマイムのヨネヤマ・ママコと2年間の契約結婚を発表し、翌年に破局。72年に女優藤田みどりと再婚するが、3男をもうけて94年に離婚。95年には26歳年下の恵子さんと電撃結婚し、98年に長女が誕生。63歳での快挙に「愛はバイアグラを越えた」と名言を残した。兄はタレントの故E・H・エリックさん。タレント岡田美里はめい。
●5月25日 米原万里さん(作家)が卵巣がんのため死去
ロシア語通訳の体験をつづった軽妙なエッセーなどで知られる作家の米原万里(よねはら・まり)さんが06年25日午後1時12分、卵巣がんのため神奈川県内の自宅で死去した。56歳。 米原さんは05年7月に出版した「パンツの面目ふんどしの沽券」(筑摩書房)の後書きで「わたしの体内に卵巣癌が発覚し、除去したものの、1年4カ月で再発した。悪性度の高い癌であるとのこと」と告白。今年、週刊文春に連載していた「私の読書日記」で「癌治療本を我が身を以て検証」と題して、さまざまな療法の実践体験記を紹介。独特のユーモアを交え「効く人もいるのだろうが、私には逆効果だった」などと、闘病生活を描いた。葬儀は27、28日に近親者のみで済ませた。後日、友人葬を開く予定。
【米原万里(よねはら・まり)】 東京都出身。日本共産党衆院議員だった父・故米原昶氏の仕事の関係で少女時代を旧チェコスロバキアのプラハで過ごした。帰国後、東京外語大、東大大学院で学んだ後、ロシア語通訳として国際会議や要人の同時通訳として活躍。90年にはロシアのエリツィン大統領(当時)来日時の通訳を務めた。 エッセー「不実な美女か貞淑な醜女か」で95年読売文学賞を受賞。プラハ時代の級友の消息を追った「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」(大宅壮一ノンフィクション賞)、長編小説「オリガ・モリソヴナの反語法」(ドゥマゴ文学賞)などで広範な読者を得た。テレビのコメンテーターとしても活躍。ロシア語通訳協会会長などを務めた。
●5月18日 俳優の田村高廣さん急死
映画、ドラマ、舞台に活躍したベテラン俳優田村高廣さんが亡くなったことが06年5月17日、分かった。77歳だった。田村さんは往年の時代劇スター阪東妻三郎を父に持ち、弟の俳優正和(62)亮(59)とともに「田村3兄弟」として親しまれた。この日、都内で通夜が営まれたが、「葬儀後に死亡を公表してほしい」との遺志もあって、身内や関係者だけが列席。静かにしのんでいた。
突然の死だった。4月初めにクランクインした映画「プルコギ」にも出演し、元気な姿をみせた。同下旬に出演シーンを撮り終えていたが直後に行われた製作発表は欠席していた。
この日、都内の葬儀場で通夜が営まれたが、親族は一切、取材を受けなかった。死因などは明らかにされていないが、関係者によると、田村さんは「葬儀が終わった後に、死んだことを公表してほしい」との遺志を伝えていたという。身内とごく親しい関係者らだけで、ひっそりと営まれた。
田村さんはもともと俳優になるつもりはなかった。同大を卒業し貿易会社でサラリーマン生活を送っていたが、53年に当時の大スターだった父阪東妻三郎が急逝。周囲に勧められるままに24歳で俳優デビューした。木下恵介監督の映画「女の園」を皮切りに、勝新太郎とのコンビで人気だった「兵隊やくざ」、鑑真役で中国ロケを敢行した「天平の甍」、海外で多数の賞を受賞した「泥の河」に出演。演技派の俳優として高い評価を受けた。
ドラマもNHK大河ドラマ「赤穂浪士」「太閤記」「花神」などで重厚な演技をみせ、05年にはNHK朝の連続ドラマ「ファイト」にも出演。舞台も父譲りの「無法松の一生」などに主演した。何回か「2代目阪東妻三郎」襲名の話が持ち上がったが、田村さんは「演技の質が違うし、コピーにはなりたくない」と固辞し続けた。
4人兄弟で、2番目の弟正和、末っ子の亮は俳優として活躍した。90年には日本テレビ「勝海舟」に3兄弟で共演し話題を呼んだ。96年に腰に激痛が走る「すべり症」で入院したこともあったが、酒を控えるなど健康面には気を使っていたという。「不器用で守備範囲の狭い俳優」と自認していたが、91年に紫綬褒章、99年には勲4等旭日小綬章を受章している。
【田村高廣(たむら・たかひろ)】 本名同じ。1928年(昭和3年)8月31日、京都生まれ。大学卒業後、サラリーマン生活を送るが、53年に父の阪東妻三郎が急死。木下恵介監督に勧められ、54年に映画「女の園」でデビュー。繊細な二枚目として人気を得て、56年阪妻追善記念の「京洛五人男」で初時代劇。65年大映「兵隊やくざ」でブルーリボン助演男優賞を受賞。同年NHK大河ドラマ「太閤記」などテレビ出演も多数。67年芸術座「華岡青洲の妻」で初舞台。91年紫綬褒章、99年勲4等旭日小綬章を受章。
●4月12日 黒木和雄氏(映画監督)が脳梗塞のため死去
青春映画の名作「祭りの準備」や戦争を題材にした「父と暮せば」などで知られる映画監督の黒木和雄(くろき・かずお)さんが12日午後3時43分、脳梗塞(こうそく)のため東京都板橋区の病院で死去した。75歳。
7日には、都内の松竹本社で新作「紙屋悦子の青春」(8月12日公開)の試写に立ち合い、元気な姿を見せていた。同席した関係者も「体調が悪い様子は全くなかった」という。体調不良を訴えたのは数日後。妻の暢子さんに付き添われ、病院で検査を受けた。軽い脳梗塞と診断され、そのまま入院。12日になって容体が急変したという。近日中に新作予告編のチェックの予定も入っていた。
ドキュメンタリー出身らしく、人間の内面に迫る描写力が高い評価を受けた。70年代に発表した「竜馬暗殺」「祭りの準備」は青春群像劇の傑作といわれた。旧制中学時代に同級生の多くを空襲で失った。80年代に入って「戦争を体験した最後の世代として記憶に残す」として、戦争を題材にした作品を積極的に製作。長崎の原爆投下前日の市民の姿を描いた「TOMORROW/明日」、終戦前後を描いた「美しい夏キリシマ」、原爆投下後の広島を描いた「父と暮せば」はいずれも高い評価を受け「戦争レクイエム3部作」と呼ばれた。思想性と映像美を兼ね備えた作品は、映画賞も数多く受賞した。
遺作「紙屋悦子の青春」も終戦間近の鹿児島を舞台に、死に直面した若者がテーマ。1月下旬に完成し、公開を待つばかりだった。次回作も戦争や股旅(またたび)ものを検討していた。自宅は非公表。葬儀・告別式は未定。連絡先は東京都台東区駒形2の2の6、パル企画。
※ 大きな宝物 「父と暮せば」でヒロインを演じた宮沢りえ(33) 監督の熱さ、優しさ、強さがいっぱいつまった映画「父と暮せば」は、私にとって大きな宝物です。今でも、ヨーイ、スタート! と監督の元気なお声が心に響いてやみません。悔しいけど、どうぞ、ゆっくり、のんびり、休んでください。
※ 兄の様な存在 黒木作品に数多く主演した原田芳雄(66)は「突然で受け止めきれません。何と言っていいか…」と言葉を詰まらせた。最近も電話で話したばかりで「具合が悪いなんて想像もしてませんでした」という。出会いは「竜馬暗殺」。「映画をやっていく決心がついた作品。黒木監督は今も俳優を続けていられる原点なんです」。撮影現場については「こちらが暴走してもきちんと戻してくれる。包容力があって解き放たれた気持ちになる。兄のような存在でもありました。妥協はしない。信念の強い方でした」と振り返っていた。
【黒木和雄(くろき・かずお)】 1930年(昭和5年)11月10日、宮崎県生まれ。同志社大卒業後の54年に岩波映画製作所演出部入社。57年監督デビュー。「海壁」「わが愛北海道」などを発表後、62年フリーに。66年「とべない沈黙」で劇映画デビュー。長崎の原爆投下の前日を描いた88年「TOMORROW/明日」でイタリア・サレルノ映画祭最優秀監督賞、日刊スポーツ映画大賞監督賞などを受賞。03年「美しい夏キリシマ」04年「父と暮せば」も日刊スポーツ映画大賞監督賞を受賞。56年に大学の同級生だった暢子さんと結婚。1女。
●3月22日 宮川泰さん(作曲家)が虚血性心不全のため死去
ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」や人気アニメ「宇宙戦艦ヤマト」のテーマ曲などを手掛けた作曲家の宮川泰(みやがわ・ひろし)さんが21日、虚血性心不全のため都内の自宅で亡くなった。75歳。午前10時を過ぎても起きてこなかったため、妻禮子さん(73)が様子を見に行ったところ冷たくなっていたという。多くの名曲のほか、NHK紅白歌合戦の最後に「蛍の光」の指揮者を務めるなど、国民に親しまれた名音楽家がまた1人逝った。
長男で作曲家の彬良さん(45)によると、宮川さんは前日20日の夕方、1人で近所に買い物に出て缶チューハイを10本買ってくるなど、変わった様子はなかったという。普段通り深夜0時に就寝したが、午前1時ごろ急死したとみられる。
持病もなかった。好きだった酒を控えるようになり、散歩など適度な運動もするなど、健康には気を使っていたという。また、NHK「歌謡コンサート」のアドバイザーの仕事が先月で終了。レギュラーの仕事がなくなり、好きだった絵を描いたり、のんびり過ごしていたという。彬良さんは「苦しんだ様子もなく安らかな顔でした。大往生だったのでは」と話した。
さまざまな側面から音楽の楽しさを伝えた人だった。ザ・ピーナッツの育ての親として知られ、「恋のバカンス」(63年)などの歌謡曲をはじめ「宇宙戦艦ヤマト」(74年)などの映画音楽、テレビやラジオ番組のテーマ曲まで、幅広いジャンルに楽曲を提供した。
「相手を楽しませたくなるクセがある」という性格から生み出された、独特の派手な指揮法でも知られた。93年から藤山一郎さんの後を継ぎ、NHK紅白歌合戦のフィナーレを飾る「蛍の光」の指揮者を務め、昨年末も元気にタクトを振っていた。また「落語家か漫才師になりたかった」というほどの軽妙なトークで、「シャボン玉ホリデー」や「おもいッきりテレビ」などの番組にも出演した。
彬良さんは大ヒット曲「マツケンサンバ2」を手掛けるなど、宮川さんの“後輩”でもある。「作曲家としては、エベレストのような高いところにいる存在。でも、素顔はギャグが受けないと落ち込んじゃうような人だった」としのんだ。
今月下旬には演奏会出演も予定していた。「メロディーのきれいな息の長い曲を」をモットーに最期まで音楽の第一線を走り続けた生涯だった。
【宮川泰(みやがわ・ひろし)】 1931年(昭和6年)3月18日、北海道留萌市生まれ。大阪学芸大音楽科を中退後、上京。「平岡精二クインテット」のメンバーとして活躍後「渡辺晋とシックスジョーンズ」に参加。独立後はピアニスト、編曲家、作曲家として活躍。「恋のバカンス」で日本レコード大賞編曲賞、「ウナ・セラ・ディ東京」で同賞作曲賞を獲得。1男1女。
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