女の世紀を旅する
DiaryINDEXpastwill


2003年10月05日(日)  韓国人女性・呉善花さんの日本見聞録

《 韓国人女性・呉善花さんの日本見聞録 》
                 2003.10.5



昨日,NHKドラマ「聖徳太子」を観たが,6世紀末の倭国の風習や慣習や衣装や雅楽などがよく研究されていて,興味深いものがあった。当時,日本は朝鮮の鉄を手に入れるため,百済(くだら)と同盟を結び,百済を通じて仏教や儒教を導入していた。6〜7世紀には多数の朝鮮人が渡来して,飛鳥文化成立に寄与した。当時,百済は新羅や半島北部の高句麗に圧迫され,日本と親交を結んでおり,ドラマでも百済の使節が貢ぎ物をもって来朝しているシーンがあったが,日本と朝鮮との人的・文化的交流が非常に盛んであったことがうかがわれる。

★ 聖徳太子(574〜622年)は,日本の女帝・推古天皇(位592〜628年)の摂政として国政を改革し,遣隋使として小野妹子を派遣して隋の煬帝(ようだい)と国交を開き,百済から伝来した仏教を奨励して飛鳥文化の興隆(こうりゅう)に寄与した皇子。
叔母にあたる推古天皇の即位とともに摂政となり,豪族の蘇我氏と協力しつつ国政改革にあたり,冠位十ニ階の制や十七条の憲法の制定によって,旧氏姓制度を打破し,天皇中心の中央集権的官僚国家の建設に尽力した。562年に朝鮮半島の日本の拠点である任那(加羅)が滅亡すると,新羅(しらぎ)討伐の軍隊を派兵したが,隋の中国統一(589年)後の東アジア情勢の変化に対処してこれを中止し,隋と国交を開いた。607年に小野妹子を隋に派遣し,煬帝に「日出る処の天子,書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」の国書を呈した。これは,太子の積極的な「対等外交」の姿勢を示すものといえる。太子の指導のもと,四天王寺や法隆寺が建造され,日本最初の仏教文化である飛鳥文化が開花した。飛鳥文化は,南北朝時代の中国文化が百済・高句麗を通じて日本に伝わったものであり,また中国を媒介としてガンダーラ仏教美術・ササン朝美術につながり,きわめて国際色豊かな文化であったことが知られる。


日本と朝鮮との文化交流の歴史は古く,日本の古代文化の形成に朝鮮人が深く関与していたが,20世紀には朝鮮が日本に併合された悲劇的な経緯もあり,その真の文化交流が展開されるようになったのは,ほんの最近にあってからであった。まだまだ両国の文化摩擦には,誤解が多くふくまれており,その点に関して韓国人女性・呉善花さんがおもしろい日韓文明比較を論じているので,紹介しておきたい。





《 呉善花さんの日本見聞録 》
               執筆は伊勢雅臣さん




●初来日での「肩透かし」

日帝時代を頑迷に反省しない日本人−それは許さないという反日意識を強く持っていた私は、どこへ行っても優しく親切な日本人、どこへ行っても整然としてきれいな日本の街並みに触れて、何か肩透かしをくわされた感じがした。

戦後、最も強固な反日教育を受けた「反日世代」といわれた私の世代は、日本といえば「悪魔の国」と答えるほどだったから、「日本人がよい人たちであるはずがない」という強い先入観をもっていたのである。

これが「東京経由のアメリカ留学」の計画で来日した27歳の韓国人女性・呉善花さんの日本での第一印象であった。





●日本の商売人は何て良心的なんだろう!

昭和58年7月に留学生ビザで来日した呉善花さんは東京は
北区十条の友人のアパートに同居し、そこから日本語学校に通
い始めた。ソウルでは間借り生活で台所やトイレも共用だった
が、ここではすべて自前で、さらに友達が冷蔵庫、洗濯機、テ
レビ、電話まで揃えていたのにびっくりした。

白米のご飯のおいしさにも感動した。韓国で白米を食べられ
るようになったのは1988年のソウルオリンピックの頃からであ
る。それまでは一般の家庭では白米に粟や麦を混ぜて食べてい
た。学校へ持って行く弁当でも百パーセント白米のご飯は贅沢
だというので禁止されていた。

そんなある日、近所のお米屋さんでお米を一袋買って炊いて
みると、パサパサとしてまるでおいしくない。不思議に思って
店で聞いてみると、三分づきのほとんど玄米と同じ健康食用の
コメを間違えて買ってしまったと分かった。

店のご主人は呉さんが誤って買ったお米を普通のお米に取り
替えてくれ、差額だけを支払って下さい、と言う。何て良心的
なんだろうと呉さんは思った。ソウルでは1万ウォン札を渡し
たのに、5千ウォンだったと店の人がごまかして喧嘩になった
ことが何度もある。日本ではそんな事は絶対にない、日本人は
良心的だ、という噂が留学生たちの間に流れていく。





●自然の美しさ、人々の温かさ

来日した当初は、親切な人が多い、秩序が安定している、街
がきれい、豊かな生活物資が満ちあふれているなど、とにかく
いい所ばかりが目についた。

特に呉さんの心を打ったのは、海と山が間近に接近した独特
の地形が織りなす自然の美しさだった。東京の叔母に誘われて
伊豆の東海岸を旅行した時には、その風景の美しさにすっかり
魅了された。これほど海と山と人の生活が溶け合った光景は韓
国ではほとんど見られない。海と山は平野によって遠くに隔て
られている−−そんな大陸的な風景が韓国のものである。旅先
で出会った地元の人々からは、風景そのままの率直な温かさが
伝わってくる。

 都会でも山の緑が家々のすぐ近くまで張り出している。
それなのに人々はさらに自宅の庭に草木を植える。韓国では人
々が暮らす村里に緑があると動くのに邪魔になるという感覚が
昔からある。庭に草木を植える家はかなり上流階級に限られて
いた。
しかし日本では普通の人でも普段の生活の中で緑を慈しむ
のだという。そんな違いも驚きだった。



●急に怒り出した八百屋さん

日本に来て最初の一年は、良い日本に感激した時期であった。
それは韓国で教えられていた日本の姿とはまったく違っていた。
しかし、2年経ち、3年を経て、日本の内部に入っていくよ
うになると、呉さんはしだいに文化や習慣の違いからくる摩擦に
悩まされるようになっていった。

十条のアパートの近くに小さな八百屋があった。ご主人が親
切にしてくれるので、野菜はいつもその店から買っていた。あ
る日、キムチを作ろうと、その八百屋に白菜を買いに行った。
呉さんは店先に積まれた白菜を、一つ、また一つと触って品
定めをしながら、「おじさん、今日は白菜をたくさん買います
からね、いいのを選んで下さいよ」と言った。

すると、主人は急に怒り出して、「悪いけど、うちのものは
あなたには売りませんよ」。何が気に障ったのか、わけがわか
らない呉さんが「なぜそんなに怒るんですか」と聞くと、プイ
と横を向いて「朝鮮人にはものを売りませんよ」。同じような
ことが、美容院やお寿司屋さんでもあった。ようやくその理由
が分かったのは、それから数年後のことだった。

韓国ではものを作る人、売る人を一段下に見る風潮があり、
また店の方でもいい加減なものを作ったり売ったりする傾向が
強い。そのため買い物をする時に、品質について念を押したり、
自ら商品に触って確かめるという事が一般的である。八百屋
にいけば「いい野菜をください」というのが、ごく普通の挨拶
であり、それが店の人への親しみの表現なのであった。

しかし、日本では八百屋は八百屋なりに、うちでは悪い野菜
など売らない、という誇りがある。韓国流の「いい白菜をくだ
さいね」という挨拶は、その誇りを傷つけるのだ。こういう場
合は「キムチを作りたいんだけど、どんな白菜がいいかしら」
などと、相手を専門家として持ち上げてやることが日本流であ
る。

こういう対人関係の有り様は、右側通行か、左側通行か、と
いう交通規則と同じで、優劣の問題ではなく、一つの文化内の
暗黙のルールなのである。左側通行の社会で右側通行をしたら
あちこちで衝突する。呉さんが悩んだのは、こういう文化の
違いだった。




●消しゴム事件

日本人の友だちができて、本格的につきあい始めると、ここ
でもさまざまな摩擦が生じてきた。たとえば、韓国ではご飯も
スープも食卓に置いたまま、スプーンですくって食べるのが食
事作法である。お茶碗を手に持って食べるのは、たいへん行儀
の悪いことである。

それが日本の作法だと知っていても、目の前でそうされると、
生理的な嫌悪感を抑えることができない。日本人はなぜそんな
おかしな事をするのか、嫌な人たちだ、と思えてしまう。

大学に入ってから、とても気のあう日本人の友だちができた。
しかし、その友だちは一緒に勉強していて、呉さんに消しゴム
を借りる時に「ちょっと消しゴム、貸してくれる?」と聞くので
ある。返すときもいちいち「ありがとう」と言う。そのたびに呉
さんは「この人は私のことを本当に友だちだと思っているのだろ
うか?」と不安な気持ちに襲われるのだった。

韓国では親友や家族の間には、距離があってはいけない。
私の物はあなたの物、あなたの物は私の物、それでこそ親密な
間柄と言えるのである。だから友だちの間で「消しゴムを貸し
て」とか、いちいち「ありがとう」などと言うのは、とても失
礼なことなのだ。

呉さんのほうは、友だちの消しゴムが横にあれば、まるで自
分の物のように断りもなしに使い、返すときもいちいち「あり
がとう」などとは言わない。ある日、呉さんがいつものように
そうしたら、友だちは耐えかねたのか、明らかにムスッとした
表情を示した。なぜそんな顔をされるのか、分からないまま、
呉さんはいいようのない暗く沈んだ世界に一人取り残された気
分に陥ってしまった。




●日本人も韓国人も行き違いに悩んでいる

呉さんは大学に通いながら、コンサルタント会社でアルバイ
トをするようになった。そこでは月に1、2回日本のビジネス
マン相手に韓国ビジネス・セミナーを開いており、呉さんは事
務局役をやりながら、セミナーを後の席で聞いていることがで
きた。

そこでは日韓の摩擦について話題になる事が多かった。ちょ
うど呉さんと反対に、日本人ビジネスマンが韓国に行って、摩
擦に悩むという声がしばしば聞かれた。悩みはお互い様なのだ、
という当たり前のことに気づかされて呉さんは嬉しくなった。
そのうちに会社からの要望で、日本人ビジネスマンに韓国語
を教え始めた。

ちょうどその頃、縁があって、韓国人ホステス数人相手の日
本語教室を自分のアパートで開いてみた。一般の学校での教え
方とは違って、韓国人が理解しにくい日本人の発想の仕方
から教えていくと、同じ年頃の韓国人の女性から教わるという
事もあって、よく分かる、と好評だった。

「こんな言葉を使えば、日本人の男性には好感を持たれるのよ。
韓国式にこんないい方をすれば、必ず嫌われるわよ」と呉さん
が教える。彼女たちは早速、店でそれを実行すると、「なるほ
ど先生の言うとおりだった」となる。その評判がパッと口コミ
で韓国人ホステスの間で広がった。

昼は韓国人との行き違いに悩む日本人ビジネスマンに教え、
夕方は日本人との行き違いに悩む韓国人ホステスを教える。日
本人と話しても、韓国人と話しても、行き違いはだいたい共通
する所にあった。日韓摩擦のポイントは、その共通項の解明に
あるのだ、という考えが徐々に固まっていった。そして語学教
室でそのあたりから教えていくと、日本人ビジネスマンも韓国
人ホステスも非常によく理解してくれるのである。まさに生き
た文化人類学研究であった。

異なる文化間の摩擦とは、相手が自分のルールに従ってくれ
ない、という所から来る。自分では左側通行が当たり前だと思
っているのに、相手が右側通行をするので「なぜこの人は平気
で交通違反をするのか」と悩んだり、怒ったりすることになる。
それは「違反」なのではなく、相手は違った交通ルール体系
に従っているのだ、と知ることが、摩擦を乗り越える第一歩な
のであろう。そうしてお互いの交通ルールの違いを知ることが、
まさに自分自身を知ることにもつながる。




●彼女は済州島出身の田舎者で、、、

平成2年、呉さんは「スカートの風」を出版した。日韓の文
化・習慣の行き違いについて、韓国人ホステスの例などを通じ
て述べた本である。反響は大きく、3ヶ月ほどで10万部を超
えるベストセラーとなった。これを機に、あちこちから講演や
原稿執筆の依頼が殺到するようになった。

ある時、東京の日本語学校の先生たちの集まりで、一時間ほ
ど講演をして欲しいという依頼を受けた。その場には主催者側
が、東大の博士課程に在学中だという韓国人男性を呼んでいた。
呉さんの話が終わって、質問の時間になると、その韓国人が
立ち上がって、つかつかと前に出てマイクを握った。

「みなさん、私は、いままで何も言わずに黙って聞いてき
たけど、彼女がどういう人だか知っているのですか。彼女は
韓国の軍隊出身なのですよ。」

確かに呉さんは高校を出てから、きびきびした女性軍人に憧
れ、10倍以上の狭き門をくぐって、教育期間を含めて4年間
軍隊に在籍し、その間大学にも行った。しかし、それと呉さん
の講演と何の関係があるのか、日本人聴衆はまったく分からな
かったろう。この男性が言いたかったのは、軍隊に行くような
女はまともではない、ということであった。さらにこう続けた。

「彼女は済州島出身の田舎者で、日本に来ても歌舞伎町の
ホステスたちと仲良くしているような人間だ。そんな人間が話
すことを、あなた方は韓国の代表的な意見であるかのように聞
いたり、質問したりして、盛り上がっているというのは、いっ
たいどういうことですか?




●「紺屋の白袴」

その時、後ろに座っていた一人の日本人男性が「失礼なこと
をいうな。おまえ出て行け!」と怒鳴った。韓国人男性は「そ
っちこそ失礼ではないか、人がせっかく説明してあげているの
に怒鳴って」と、怒鳴られた理由がまるで分かっていない。

そこで彼は、自分を紹介しますと言って、私は東大の博士課
程にいて、有名な○○先生のもとで、これこれの研究をしてい
る、と自慢げにとうとうと述べ立て始めた。これが韓国であれ
ば、一にも二にも彼の輝かしい学歴が、その主張の正しさ
を保証し、だれもが彼の意見を尊重する所だ。

しかし日本ではそうはならない。高学歴だからと言って、そ
の人の言うことが正しいとは誰も思わないし、そもそも「学者
馬鹿」などという言葉すらある。会場の日本人たちからは口々
に彼への反発の声があがる。しかし、彼はなぜ日本人たちが自
分に反発しているのか、まるで分からない。

異文化摩擦の絵に描いたような事例である。呉さんには、そ
の行き違いが手に取るように分かった。そもそも彼の師事する
東大の○○先生は著名な人類学者で、呉さんの「スカートの
風」には大変に感動した、立派な本だと誉めて、韓国専門の先
生方や学生の前で話をさせてもらった事があったのである。

この男性は博士課程で文化人類学を研究しながら、自分自身
では日韓の文化の違いをまるで理解せずに、韓国流そのままで
振る舞って、日本人聴衆の反発をかっていたのである。まさに
「紺屋の白袴」とはこの事だ。




●行き違いを克服した原動力

平成9年4月に呉さんは新宿の高層ビル街にマンションを購
入した。呉さんが日本に渡って16年、物書きを職業とするよ
うになって、すでに12冊もの本を出していた。マンション購
入は日本への定住の意思表明だった。

呉さんが今までを思い返してみると、日本という異文化社会
に飛び込んで、様々な迷路に迷い込み、何度も行き違いに悩ん
できた。そんな呉さんを救ってくれたのは、「よき人」との出
会いだった。行く先々で本当にいい人たちと出会え、その人た
ちが様々な形で呉さんを助けてくれた。

そしてそういう「よき人」たちとの出会いを作りだしたのは、
呉さん自身の「よき人」を求める気持ちの強さ、真剣さではな
かったか。日韓の行き違いから逃げずに、「よき人」を求める
て悩みながらも行き違いを直視し、その原因を考えてきた。そ
の真剣さが、行き違いを克服する原動力だったのだろう。

 現代のグローバル社会では、あらゆる国々や民族との文
化摩擦を乗り越えていかねばならない。その「しんどさ」に耐
えていくためには、それだけ「よき人」を求める真剣さを持た
ねばならないのだろう。



カルメンチャキ |MAIL

My追加