女の世紀を旅する
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2003年07月20日(日) |
《 ニーチェ 生成の無垢 1 》 |
《生成の無垢 1》
ニーチェ『生成の無垢』(吉沢伝三郎訳)
ニーチェはすでに19世紀末に,これから到来する科学・技術社会においては「神は死んだ」というニヒリズム(虚無主義)が到来することを予想し,そのためにもはやキリスト教の価値観ではこれを克服できないという信念から,東洋思想に着目した。
とくにニーチェが着眼したのは古代のインド哲学や,ギリシア哲学の知慧であり,これらの人間主義の哲学にニヒリズムを超克するための知慧を探求し続けた。
「自分を最高に生きる」知慧こそが現代の日本人が見失ったものであり,目先の享楽や刹那的な生き方を,付和雷同的に追い求めて,自分個人の生き方のプリンシプルをもてなくなったところに,今日の日本人の精神の希薄性が感じられる。知識の理想を失った日本社会に残されているのはデカダンス(頽廃)だけなのかもしれない。これほど,知識への畏敬と尊敬の念を失った時代は過去にあっただろうか。
もしも21世紀の価値観多様と散乱の中で,確固たる信念体系をもって生きていく知慧をを探すなら,ニーチェの人間洞察に関するアフォリズム(箴言)から学ぶ点が多いのではなかろうか。ニーチェは20世紀の時代世相を科学万能主義からくるニヒリズムの時代となることを予測し,ニヒリズム(虚無主義)の超克を一貫して主張してきた点に注目したい。
《 生成の無垢 》
1. 青年は,おのれの考えを常にあまりに強く述べる人に希望をかけ,男性は,その言葉が常にその遂行に比して控え目である人に希望をかける。
2. 経験をつんだ人間たちは,彼らがかつてきわめて愛した地域や人物へと立ち帰ることを好まない。幸福と別離とは,結局は結び合わされることになっている。人々は宝を携えて立ち去るのだ。
3. 後継者をもつということ―――このことが初めて人間を,間断のないもの,つながりあっているもの,断念しうるものにする。このことが最善の教育なのだ。 両親は,つねに,子供によって,しかも,もっとも精神的な意味でのそれをも含めて,あらゆる意味での子供によって教育されるものなのである。私たちの作品や弟子がはじめて私たちの人生という船に羅針盤と方針とを与える。
4. 私たちの本質の大部分は,私たちには未知である。それにもかかわらず私たちは,わずかの記憶を根拠として,おのれを愛し,何かまったく既知のものについて語るように語る。私たちは「自我」という幻を妄想しており,それが私たちをしばしば規定する。
5. 悲しみと官能的快楽。なぜ人間は,悲哀の状態にあるときには,官能的な楽しみに盲目的に身をゆだねる傾向がいっそう強くなるのか? 官能的な楽しみのうちにある麻痺させるものこそが,そういう人間の欲求するものであるのか? それとも,是が非でもという情緒の要求? サンチョ=パンサは言っている。「人間があまりにもはなはだしく悲しみに身をゆだねるときには,人間は動物になる。」
6. 抑圧された気分の価値。なんらかの内的な抑圧のもとで生きている人間たちは,もろもろの逸脱へと傾く,――思想の逸脱をも含めて。
7. (対象喪失と心理的空白) 想像上の権力という泡が破裂する,これが生における主要な事件なのだ。その時人間は腹を立てて,あるいは打ち砕かれて,あるいは空(うつ)け者になって,身を引く。最愛の者たちの死,あるいは王朝の崩壊,友人の不実,ある哲学の,ある党派の支持しがたさ。そのとき人々は慰めを欲するのだ。言いかえれば或る新しい泡を。
8. 人々はためしてみなければならない。友人たちや,「私たちの幸福を心にかけてくれる」者たちのうちの誰が、あくまでそうであり続けるかを。彼らに一度粗暴なふるまいをしてみることだ。
9. 2日間の厳しい断食のあとでシャンペンを一口飲む者は,情欲にまったく近似しているなにものかを感ずる。何週間も或る暗い洞窟の中で暮らした人間の眼差しは,自然を覗き見て目の陶酔を覚える。情欲の何であるかを知っているのは,禁欲者たちだけである。
10. 発明的(創造的)な人間たちは,活動的な人間たちとはまったく別の生き方をする。彼らは,無目的な,不規則な活動が行われるための時間を必要とする。すなわち,もろもろの試みや新しい軌道。彼らは,有用な活動をおこなう者たちのように,熟知の道だけを歩むというよりは、むしろ手探りする。
11. 官能の強い人間たちは彼らの知的な力を彼らの神経が衰退する引き潮どきに初めて獲得する。このことが,彼らの生産に憂愁という性格を与えるのだ。
12. 私たちは,私たちの弱さでよりも,私たちの強さでいっそう容易に破滅する。なぜなら,私たちの弱さに関しては私たちは理性的に生きるが,私たちの強さに関してはそうではないからなのだ。
13. 勇敢さや快活な気分に満ちている心の持ち主は,ときどき多少の危険と冒険を必要とする。さもなければ彼らには世界は耐え難くなる。
14. 人々が独自の新しい道を歩みゆくとき,或る喜ばしい自己意識を維持することは,きわめて困難である。私たちは己にいかなる価値があるかを知りえない。そこで私たちは他の人々の言葉を信じざるをえない。そして,私たちが未知の道を歩みゆくというまさにこの理由で,他の人々が私たちを正しく判定することができないなら,私たちはおのれ自身に疑念を抱く。私たちは,喜ばしい,気力を奮い立たせる呼びかけを必要とするのだ。孤独な者たちは,さもなければ陰鬱になり,彼らの有能さの半分を失う。
15.人々は,堅気(かたぎ)の男と悪党との間の道徳的な違いをあまりにも大きく考えすぎている。泥棒や殺人者に対する法律は,教養がある者たちや富んでいる者たちに有利なようにつくられている。
16.恐怖からしてたいていは,他人の意見を顧慮することの説明がつく。愛嬌のかなりの部分がこれに属する。このように人間の善意は、遺伝の助けをかりて,恐怖によって育てあげられる。
17.名誉心の主要要素は,おのれの権力の感情を得るということである。称賛と非難,愛と憎しみは,権力を欲するところの,名誉心の強い者たちにとっては等しい。
18.愛着と嫌悪とは無思慮。愛着あるいは嫌悪が最初に噛みついてしまったときには,亀が棒に噛みついてしまって離れないときのように,離れることは困難である。愛と憎しみ,および亀は,愚かである。
19.なぜ愛着と嫌悪とはそれほど感染するのか? 賛否をさし控えることはきわめて困難であり,賛成することはきわめて快適であるからだ。
20.罵言(ばげん)は誰もが好きであるが、おのれ自身に罵言があびせられるのは当然だと信じる者は、誰ひとりとしていない。
21.懲罰を記憶しておれる子供たちは、陰険になり隠し立てをするようになる。しかし、たいてい彼らは忘却する――だから彼らは無邪気さを失わないのだ。
22.一人前の男においてはじめて家族の典型的な性格が完全に見えるようになる。とかく興奮しやすい、敏感な若者の場合には、それは最もわずかしか見えるようにならない。まず静けさが生じていなければならず、外からの影響の数が減少していなければならない。あるいは、他方敏感さがいちじるしく和らいでしまっているのでなければならないのだ。
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