女の世紀を旅する
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2003年01月19日(日) |
《 独裁者と核への恐怖 》 |
《独裁者と核へのの恐怖》
2003年1月19日
●サダム・フセインの予言
1990年6月、イラク大統領サダム・フセインは、オーストラ リア生まれの政治評論家グレゴリー・コプレイに語った。冷戦 が終わり、米ソ二極構造の崩壊した後には、各地に力の空白地 帯が生じ、そこに地域的覇権国家群が登場するだろう。そして 中東で覇権を握るのはイラクである、と。 これが2ヶ月後のイラクによるクウェート侵攻の予言だった。 サダムの野望はアメリカを中心とする連合国軍によって阻止さ れたが、敗戦後もサダムはしぶとく生き残り、今また第2次湾 岸戦争の危機が迫っている。
米ソが対立しつつも、それぞれの陣営を守っていた冷戦とは、 一つの秩序であった。米ソそれぞれによって、多くの民族紛争、 領土争いが押さえ込まれていたからである。サダムの言うとお り、ソ連が崩壊し、陣営内のタガがはずれると、とたんに各地 で紛争が始まった。湾岸戦争は冷戦後の乱世の幕開けだったの である。現在の第2次湾岸戦争の危機も、その歴史的なパース ペクティブの中で捉えなければならない。
●冷戦後に多発した民族紛争
たとえば、ユーゴスラビア。国内に6つの言語があり、宗教 もカトリック、ギリシャ正教、イスラムと多様な連邦国家だっ た。1991年6月、国境を接するオーストリアに近い風俗を持ち、 住民のほとんどがカトリックを信仰するスロヴェニアが連邦離 脱を宣言した。ギリシャ正教を信じ、スラブ意識の強いセルビ ア人を中心とするユーゴ連邦軍がそれを阻止しようと、内戦が 始まった。 独立を巡る内戦は、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィ ーナと繰り返されていく。ソ連軍が健在であれば、このような 内戦は即座に戦車で踏みにじられたであろう。
エチオピアの共産主義政権はソ連がキューバ軍を使って作っ た。しかし、ソ連が経済的窮乏から1989年8月に軍事援助を打 ち切ると、自治領エリトリアのイスラム過激派が反乱を起こし、 91年4月にはついに共産主義政権を打倒して、独立を果たした が、その後もエチオピアとの間で領土紛争が続いている。
ソ連にタガをはめられていた世界各地の民族独立運動が息を 吹き返し、そのための紛争が勃発したのである。
●サダムの野望
イラクもまたソ連の影響下にあった。ソ連は多数の軍事顧問 をイラクに派遣し、イラク軍の指導に当たらせていた。冷戦時 代にイラク軍がクウェートに侵攻したら、アメリカはそれをソ 連の差し金と判断しただろう。それはかつてソ連がキューバ軍 を使って、エチオピアを支配下においたのと同じ構図となる。 アフリカならまだしも、石油供給の大動脈たるペルシャ湾への 進出はアメリカとしても許せない。アメリカとの全面対決を望 まないソ連は、サダムがクウェートの併合を企てても決して許 さなかったであろう。
しかし、ソ連とイラクの軍事同盟は、1987年に終わっていた。 ゴルバチョフのもとで民主化・自由化を進めるソ連にはもはや イラクを押さえ込む意思も力もなかった。ソ連のタガははずれ、 サダムは行動の自由を確保していた。軍事力は蓄積され、中東 で覇権を握る機会は目前にあった。 サダムは、紀元前6世紀に現在のイラクからエジプトに至る 版図を築いた新バビロニア王国のネブカドネザル2世を礼賛し ていた。この王は紀元前586年にエルサレムを奪ってソロモン王 の神殿を破壊し、ダヴィデ王以来のユダヤ王国を根絶やしにし, ユダヤ人をバビロンに強制移住させた。サダムの御用ジャーナリ ストは次のように言っている。 「パレスチナのユダヤ人を、ネブカドネザルは征服した。 彼について思いを馳せるのは、アラブ人ことにイラク人に いいたいからである。歴史は諸君に責務を課しているので あり、責務とは戦いである。」 サダムは、ネブカドネザル2世の肖像と並んで立つ自分の姿 を絵に描かせている。
●アメリカは介入するか
サダムは、イラクがクウェートに侵攻しても、アメリカは介 入してこない、と判断していたようだ。1990年8月2日の侵攻 開始後、ブッシュ政権が米軍の派遣を発表すると、サダムは8 月17日に行った声明の中で、英米は8年間も続いたイラン・ イラク戦争には直接の介入をしなかったではないか、と言った。 侵攻の1週間ほど前、アメリカのイラク駐在大使エイプリ ル・グラスピは、サダムと面会した際に、イラクとクウェート との争いに関して、アメリカは「格別の見解はもたない」と言 った。これでサダムは、アメリカの介入はないと読んだようだ。
これをアメリカが謀略でサダムを暴発させたとする見方もあ るが、アメリカの偵察衛星は東欧のソ連軍の撤兵状況を監視す ることに忙しく、イラクの地図すら作っていなかった事から、 アメリカの外交上の失敗と見る見方もある。 いずれにせよ冷戦時代なら、アメリカが米ソ対決の危険を冒 して、イラクを暴発させることなど考えられないし、またサダ ムが、アメリカは介入しないと読み誤る事もなかったろう。お 互いがどう出るか分からないままに、手探りでゲームを続けな ければならないのが、乱世の習いである。
●「戦争に負けるよりも深刻」な事
8月2日朝の時点では、ブッシュ大統領は米軍を使用する計 画はないと言っていた。しかし、偵察衛星からイラク軍がサウ ジの国境近くに展開している状況を知り、サダムがさらにサウ ジ東部の油田の奪取を企てていると読んで、米軍派遣を決断し た。 このまま放置すると、サダムは中東8千万のアラブ人と世界 の石油の半分以上を支配下に置くことになる。「中東の地図を 書きかえ、世界の経済に打撃をあたえるような軍事的冒険を、 合衆国は許すことができない」とブッシュは言った。 アメリカの動きは予想外だったが、サダムは後に引けなかっ た。8月末には彼はこう発言したと伝えられている。 「もし私が島と油田とを保持するためにのみ引下るとすれ ば、国民は決して承知しないだろう。それは戦争に負ける よりも深刻だろう。」 また10月にはゴルバチョフの特使エルゲイ・プリマコフが サダムに会って「アメリカは戦争をはじめ、ソ連がそれを止め にはいることはないだろう」と言うと、サダムはごく平静に 「分かっている」、「しかしイラクは戦争に敗れる」とプリマ コフがたたみかけても、サダムは驚くほど冷静に「おそらく」 と応えた。 戦争に負けても、欧米を相手に勇敢に戦ったというアラブ世 界での名誉は残る。戦いで何十万人イラク国民が死のうと問題 ではない。「戦争に負けるよりも深刻」な事とは、自分が卑怯 者とされて失脚し、物理的生命を失う事を意味した。 米軍はバクダッドまでは攻めてこないだろう。空襲だけなら 生き延びられる。敗戦後も秘密警察で国民を締めつければ、政 権は維持できる。この時点で、サダムは名誉ある敗戦を戦って、 生き延びる道を選んだのである。このシナリオは成功し、サダ ムは今も政権を継続して、現在の第2次湾岸危機につながって いる。
●許されなかったイスラエルの反撃
乱世には群雄が割拠する。中東での動乱の目となってきたの がイスラエルだった。米ソの自由主義と共産主義のイデオロギ ー対決が消滅すると、その陰に隠されていた民族対立が表面化 する。 イスラエルは、1981年6月にイラクが開発中だったバクダッ ド近郊の原子炉を航空爆撃により破壊した。イラクはその直前 にイスラエル全土を射程距離に収めたミサイルを配備しており、 さらに核兵器開発を許すわけにはいかなかった。 湾岸戦争で連合軍の攻撃が始まると、イラクは地対地ミサイ ルをイスラエルに撃ち込んだ。イスラエルが反撃すれば、湾岸 戦争はアラブ対イスラエルの戦争となって、アラブ諸国は連合 軍から離脱するだろうというのがサダムの戦略だった。 アメリカもそれを読んで、イスラエルにはイラクに反撃する ことを許さなかった。イスラエル国民はイラクからのミサイル 攻撃を受けつつ、十分に反撃する戦力もありながら、じっと耐 え忍ぶしかなかった。アメリカのイスラエルに対する影響力が 弱まっていたら、湾岸戦争は中東全体を巻き込む、より大規模、 複雑な戦乱に発展していた恐れもあった。 しかし、もしイスラエル空軍の出動が許されていれば、かつ ての原子炉爆撃のようにイラクのミサイル網を徹底的に破壊し て、その後の危険の芽を摘めたのに、というのが、イスラエル の言い分である。
●独裁者が核を持ったら
イスラエルのもう一つの言い分は、イラクの原子炉を破壊し たからこそ、イラクの核開発が大幅に遅れて、湾岸戦争も成功 したという事である。確かにこの時点で、イラクが1個でも核 兵器を持っている恐れがあったら、米軍も容易にイラクを攻撃 できなかったろう。たとえ核ミサイルが未完成でも、核を積ん だ艦船や飛行機で自爆攻撃をかければ、アメリカの艦隊や地上 部隊に甚大な被害を与えることができる。 冷戦時代には、米ソがお互いに核兵器を持って、睨みあって いたからこそ、核戦争は避けられた。お互いに核ミサイルを撃 ち込まれて、自国民を数百万人も殺される事はなんとしても避 けたいと言う自制心が働いていたからだ。 しかし、自国民が核兵器で大量に殺戮されても一向に構わな い独裁者に対しては、核を使ったら核で反撃するぞ、という脅 しは効かない。サダム・フセインや金正日のような独裁者が核 を持ったら、アメリカの武力をもってしても、容易には押さえ 込めないのである。
●乱世に広がる核兵器 湾岸戦争ではアメリカの通常兵力の強さが実証されたが、同 時にそれに対抗するには核兵器しかない事を乱世の雄たちは再 認識した。彼らに核技術を供給したのが、旧ソ連から流出した 核技術者であり、また中国であった。 中国は冷戦時代から、米ソの狭間にあって、独自の核開発を 進めてきた。ソ連崩壊後は、米国の一極構造に挑戦する「乱世 の雄」であり、同時に「死の商人」として、いくつかの反米国 家に核施設やミサイルを輸出して外貨を稼ぎつつ、乱世に拍車 をかけてきた。 中国は国境紛争を戦ったインドを牽制するために、パキスタ ンに核技術を提供した。1989年に最初の軍事用原子炉が中国か ら届き、1998年にインドが核実験を行うと、すかさずパキスタ ンも後を追って、地下核実験を成功させている。 湾岸戦争後の91年、イラクの宿敵でありイスラム過激派のイ ランは、中国首相李鵬を迎えて、年間50億ドルの軍事産業支 援協定を締結した。イランはそれまでにも中国から相当数のミ サイルを購入していたが、この協定を機に、年末には3千人に ものぼる中国人技術者がイランの軍需工場で働くようになった。 92年7月には、中国製の核製造用原子炉2基が届いた。 中国は最高指導者カダフィが独裁するリビアにも、原子炉を 輸出したと言われている。
●乱世に向かう世界情勢
冷戦時代、米ソ対立の狭間で、米軍に守られていた日本は、 平和で安定した類い希な幸福の一時を過ごした。非武装平和主 義は、この幸福な一時にのみ咲いたあだ花であった。 米ソ冷戦が終われば、恒久的な平和がやってくるとの根拠な き楽観もそのあだ花の一つであった。冷戦とは一つの秩序であ り、それが消滅した後、新しい秩序が生まれるまでは、群雄が 割拠し、しのぎを削る乱世となる。世界史を見れば、このよう な乱世の方が常態である。しかも、現在の乱世は、小国でも核 さえ持てばアメリカにすら対峙できるのだ。 このような乱世では、経済援助も軍事力強化につながる恐れ がある。日本の中国へのODAが軍事力強化につながっている という指摘は以前からなされてきた 。湾岸戦争前にイラク が外国の政府・民間から受けている経済援助の実に73%は日 本からで、日本に対する累積債務は6千億円に達していた。 乱世の実情に無知のまま、善意の経済援助を続けることは、乱 世に拍車をかけることになりかねない。 このような乱世では、自らの生きる戦略や原則をはっきりさ せる必要がある。たとえば多くの地方自治体が非核宣言を行っ ている。それが単なるポーズでないなら、まず核を拡散させて いる中国や、ただ今現実に核を開発し、わが国に脅威を与えて いる北朝鮮にこそ、非難の声をあげなければならない。また一 朝事ある時に、自衛隊が効果的に国民を守れるよう、法的整備 も急がなければならない。 ソ連や中国の核兵器には目をつぶって、米国の核にのみ反対 する反核運動、自衛隊の手を縛る事だけを目的とした反戦平和 運動は、幸福な冷戦時代のあだ花である。乱世にわが国がどう 生きるのか、世界の現実を見つめつつ、独自の戦略的な外交を とらなくてはならない時代がやってきた。泰平の時代は過ぎ去 り,世界は間違いなく乱世に向かっている。時代の相が明らか に変貌し,パワーシフトが起こりつつある。
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