女の世紀を旅する
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2002年10月27日(日) モスクワの劇場占拠テロ チェチェン紛争の背景 後編

チェチェン紛争の背景 後編            
                2002.10.27







※ 人質90人以上死亡,武装集団の死者は50人(18人は女性)

【モスクワ26日=瀬口利一】ロシア特殊部隊の突入で解決したモスクワの劇場占拠事件で、ロシア保健省は26日、800人以上いた人質のうち90人以上が死亡したと発表した。また、劇場を占拠していたチェチェン=イスラム武装集団の死者は、リーダー格のモブサル=バラエフ野戦司令官を含めて50人に達した。うち18人は女性。一方、ロシア連邦軍は事件解決を受け、26日、チェチェン共和国で武装勢力の新たな掃討作戦に乗り出した。

武装集団はこの日早朝、人質2人を殺害。さらに、逃げ出そうとした人質を撃ち始めたため、特殊部隊が突入した。地元テレビなどによると、特殊部隊は占拠犯の動きを封じるため、突入直前、エアコンの通気口などから特殊ガスを注入した。制圧作戦は約2時間で終わった。特殊部隊に死者はいなかったという。

劇場からは750人以上が救出されたが、その半数近い約350人が病院で治療を受けた。容体が重く、入院した人もかなりいる。ガス中毒の症状を示している人も多いという。人質に多くの死傷者が出たのは、制圧作戦に大量の特殊ガスを使ったことが原因との見方もあるが、治安当局はこの説を否定している。

殺害された武装集団メンバーにはアフガニスタン人やアラブ人がいたとの情報がある。生き残った3人は逮捕された。

内務省のウラジーミル=ワシリエフ次官は「人質が脅威にさらされていたため、作戦に踏み切った」と述べ、突入はやむを得ない措置だったことを強調した。



《チェチエン紛争 後編》


●ベレストロイカと1991年のチェチェン政変

 1987年にゴルバチョフがペレストロイカ(政治改革)を始めたとき、チェチェンの人々は、自由な時代の到来を期待して喜んだ。チェチェン人は、自分たちの信仰や生活を脅かすロシアの存在を嫌ったが、ロシア人が自らの体制を改革し、チェチェンに自由を与えるというのなら、別だった。

 チェチェンではペレストロイカの結果、1989年7月には、150年ほど前にロシアに併合されて以来初めて、チェチェン人のザガイエフ第一書記 Doku Zavgayev が、共産党によって政府指導者に任命された。

 91年8月、モスクワでクーデターに失敗した共産党が解体された直後、チェチェンでも共産党のザガイエフ第一書記が、ソ連空軍の将軍だったドダエフ(チェチェン人)のクーデターによって追放された。政権をとったドダエフは、チェチェンを西欧型の自由主義を持った国にすることを目指し、彼が提案したチェチェン憲法は、信仰の自由などがうたわれていた。




●地元の信仰と対立したイスラム原理主義

 ペレストロイカ後、チェチェンでは200以上のモスクが建設されるなど、信仰の自由化が進んだ。ロシア革命以来初めて、メッカ(サウジアラビア)への巡礼が許され、多くの人々が巡礼に行き始めた。

 オイルダラーで金持ちになったサウジアラビアの財界人たちが、チェチェン人の巡礼資金を支援することも多くなった。中東諸国から、多くのイスラム聖職者がチェチェンに派遣され、聖典コーランを教える教室が、各地のモスクに併設された。

 だがしばらくすると、中東からの聖職者の流入や、メッカへの巡礼や留学によって中東のイスラムを学んで帰ってきたチェチェン人が増えた結果、地元のスーフィズムの聖職者との衝突が始まった。

 サウジアラビアで主流のイスラム教は「ワッハビズム(ワッハーブ信仰)」と呼ばれ、伝統にのっとった厳格な生活習慣を信仰者に求めるイスラム原理主義の信仰である。これは、開祖ムハンマド(マホメット)の時代の信仰を維持すべきだと考える「原理主義」的な信仰で、「聖者」などの人間を崇拝することや、歌や踊りを宗教儀式とすることに反対していた。

 チェチェンのスーフィズムには、聖者崇拝や歌や踊りの儀式が不可欠だが、サウジアラビアからきたワッハビズムの聖職者は、これらを反イスラム的だと攻撃し、スーフィズムの聖職者と激しく対立した。




●若者の心を奪った「反ロシア・反西欧」のイスラム原理主義

 ワッハビズムの運動は、西欧諸国が中東に影響力を及ぼし始めた18世紀後半、西欧化への反発から出たイスラム教の原点回帰運動として、アラビア半島で始まった。この運動は、アラビア半島の豪族だったサウド家の政治力を広げるために使われた。この結果,イブン=サウドがアラビア半島を統一し、1932年にサウジアラビア王国を建国し,ワッハビズムを国教とした。「サウジアラビア」とは「サウド家のアラブ人国家」という意味だ。
 チェチェン人の多くは、新しく入ってきたワッハビズムよりも、伝統的なスーフィズムを好んだ。彼らにとっては、ワッハビズムを持ち込んだアラブ人も、チェチェンの支配をたくらむ外国勢力だったからである。

 しかし、若者たちは違った。チェチェンではソ連崩壊後、ソ連時代からの国営企業が次々と閉鎖され,失業率が増え、場所によっては成人の8割が失業していた。将来への希望を失い,暇を持て余す若者らは、新しく作られたワッハビズムのモスクに行くようになったが、そこで教えられることは「ロシアや西欧の異教徒(キリスト教徒)によるチェチェン支配を許してはいけない」という、ワッハビズムに立脚したイスラム原理主義の考え方だった。

 仕事もなく、若い力を持て余す青年たちの渇いた心には、この「反ロシア・反西欧」の明確なイスラム信仰が、唯一の希望と救いに思えた。若者たちは、スーフィズムを守旧的な体制派の年寄りの信仰だとして攻撃するとともに、西欧風の自由主義国づくりを目指すドダエフ大統領の政策に反発するようになった。

 ワッハビズム勢力は、サウジアラビアのオイルダラーの後ろ盾があったから、資金も潤沢だった。ドダエフ政権の姿勢は、しだいにイスラム色の濃いものにならざるを得なかった。




●ロシア軍の進攻を黙殺した「国際社会」

 ワッハビズムのイスラム原理主義勢力は、スーフィズムを排除して自分たちの教えを導入した山村を、当局の力の及ばない事実上の自治区域にし始めた。ワッハビズムが導入された山村では、既存のロシアの法律を破棄し「イスラム法」を導入することが宣言され、それを止めるためにやってきたロシア連邦警察とは、銃撃戦も辞さない構えで対立した。

 このように、チェチェンの山岳地帯がイスラム原理主義の支配地域になっていくことに、ロシアは警戒感を強めた。チェチェンは1992年にロシア連邦への参加を拒否し、それに対する交渉が続いているうちに、チェチェンの反ロシア的なイスラム急進派の力が伸びていった。この傾向に終止符を打つため、ロシア軍は1994年9月、チェチェンに武力侵攻した。

 ロシア軍が侵攻してきたとき、ドダエフ大統領は、欧米諸国に助けを求めた。大国に抑圧されてきた民族の独立を、人権問題として世界中で支援している欧米の「国際社会」は、きっとチェチェンのことも支援し、ロシアを非難してくれると期待した。

 だが「国際社会」を主導するアメリカは、親米政策を貫いていたエリツィン大統領の肩を持った。アメリカがエリツィン政権を敵視して追い詰めれば、エリツィンのライバルである旧共産党勢力が復権する可能性があり、冷戦時代の米ソ対立に逆戻りしかねなかった。欧米はチェチェン紛争をロシアの内政問題とみなし、侵攻を傍観した。




●支援にかけつけた志願兵「アフガニー」とゲリラ組織「アルカイーダ」

 その一方でイスラム原理主義勢力は、チェチェンに対する支援を強めた。「アフガニー」と呼ばれる、アフガニスタンへ侵攻したソ連軍と戦った経験を持つベテラン志願兵たちが、中東全域から続々とチェチェンにやってきた。

 1979-89年の、ソ連軍とアフガンゲリラとの戦いは、強いイスラム信仰を抱く人々を「武装集団」に育てる最初のきっかけだった。ワッハビズムを広げることでイスラムの中心地メッカを擁する自国の地位を高めたいサウジアラビアと、中央アジアにおけるソ連の南進を食い止めたいアメリカとの思惑が一致した結果、サウジアラビアが中東で志願兵を募り、米軍が軍事訓練を施して、アフガニスタンの戦線に送り込む流れが作られた。今日のオサマ=ビン=ラーディン率いる国際ゲリラ組織「アルカイーダ」もこのときに結成された。

 志願兵「アフガニー」とゲリラ組織「アルカイーダ」は、アフガニスタン戦争が終わった後も、武力を使ってイスラム教を守る「聖戦」に参加することに意義を見出し、ボスニアやカシミール、スーダンなどの、イスラム教徒と異教徒間の戦場に登場した。そしてチェチェンも、彼らの行き先の一つとなった。ハッタブ(Emil Khattab)というヨルダン人の戦闘司令官などが、チェチェンに現れたアフガニーとして知られている。

 


●「天国へ直行」を利用する司令官たち

 アフガニーたちがチェチェンを武力支援し、ロシア軍が撤退した後の1997年になっても、チェチェンの多くの人々はまだ、イスラム原理主義を嫌っているか、敬遠していた。この年、ドダエフ大統領がロシア軍によって殺されたが、その後の大統領選挙で、イスラム急進派のヤンダルビエフが敗れ、ドダエフの政策を引き継いだマスハドフ(Aslan Maskhadov)が大統領に当選したことに、それが表れている。

 だが人々の意識とは裏腹に、1996年にロシア軍が撤退し、事実上の自治が確立したチェチェンでは、イスラム原理主義勢力がますます力を増していった。チェチェン政府(マスハドフ大統領)は1997年、旧ソ連の中で唯一、イスラム教を国教と定める宣言を行った。

 この背景には、ロシア軍との戦闘を通じて政治力を増したチェチェン軍の司令官たちが、イスラム原理主義を自らの信条として掲げていたことがあった。「聖戦で死ねば天国へ直行できる」というイスラムの教えは、死に直面する兵士を奮い立たせるもので、戦争を遂行する司令官にとって、原理主義は便利なものだったからである。

 チェチェン軍の最高司令官であるシャミール=バサエフ(Shamil Basayev)も、ワッハビズムの厳格なイスラム信仰を実践してはいないものの、イスラム原理主義の考え方を戦略的に使った。

 バサエフ司令官はチェチェンからロシア軍を追い出した後、1999年夏に、イスラム原理主義の勢力を広げるため、東隣のダゲスタン共和国に軍を侵入させた。武勇で知られるチェチェン人とは対照的に、ダゲスタンの人々はイスラム学習の熱心さで知られ、北カフカス地方のイスラム教区の中心は、ダゲスタンの首都マハチカラにある。

 ソ連崩壊後、ダゲスタン共和国でもワッハビズムの浸透が進み、バサエフ司令官は、ダゲスタンの村々とチェチェンとの連携を強め、ダゲスタンをイスラム共和国としてロシアから独立させようと動いたのだったが、これは再びロシア政府の懸念を強めることとなった。

 この緊張状態に加え、チェチェンの「テロリスト退治」によって支持率を上げたいプーチン大統領のロシア政府の思惑もあって、99年10月、ロシア軍が再びチェチェンに侵攻し、今に至るまで戦闘が続行している。

 モブサル=バラエフ野戦司令官が今回のモスクワの劇場占拠事件のリーダーであっが,ロシア特殊部隊の突入によって射殺された。


 犯人側は,首都モスクワの人気ミュージカルを乗っ取ることで,内外への強烈なアピールを狙ったが,その手法はチェチェン武装勢力と関係があるテロ組織「アルカイーダ」の手法に酷似しており,恐らくその支援をえて敢行したものと思われる。

 リーダーの若きモブサル=バラエフはオサマ=ビン=ラーディンをまねるように,カタールの衛星テレビ「アルジャラータ」に,「モスクワで敵の魂を奪って自爆する」とアラビア語で語ったビデオを送りつけている。

 今回の事件といい,先の280人の死者を出したバリ島のクタのディスコ爆破テロなど,いよいよ世界は暴力的な様相を増しており,イスラム過激派による一連のテロは今後も頻発するだろう。まさに「文明の衝突」が顕在化している状況にあるのではなかろうか。


カルメンチャキ |MAIL

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