女の世紀を旅する
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2002年02月20日(水) |
北朝鮮の悲劇〈2〉 北朝鮮に渡った日本人妻 |
《北朝鮮に渡った在日朝鮮人と日本人妻の悲惨な運命》 2002年2月20日
昨日,訪日したブッシユ大統領は小泉首相と会談し,テロとの戦いでの両国の協力関係を確認しあった。先月,ブッシユ大統領はイラク・イラン・北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を名指しで「悪の枢軸」と呼び,国際的な反響を呼んだが,特に日本にとっては,北朝鮮に対する米国のテロ支援国家としての敵対姿勢が,今後の東アジア情勢にも大きな影響を及ぼすのは必至である。
ところで,日本人拉致事件と並んで,我々日本人が看過すべきではないは,北朝鮮の渡って消息不明となった同胞の日本人妻とその子供たち6300人の安否であり,日本の政治家やマスコミはこの重大な問題を決して忘れてはならない。朝鮮人と結婚したのだから,もはや関係ないという無責任な姿勢では困る。はたしてかれら日本人妻とその子供たちは今なお健在に暮らしているのか,その安否はどうなっているか,これは日本人拉致事件と日本人として看過できない重大問題であるはずだ。
●「地上の楽園」を信じて北朝鮮へ帰国した在日朝鮮人9万3000人
多くの在日朝鮮人が日本で生活するようになったのは,1910年の日韓併合以来,日本による朝鮮半島支配がきっかけであった。半島の土地を日本人に奪われ,生きる糧を求めて日本に渡り,あるいは有無をいわさず強制連行され,炭鉱などで過酷な労働を強いられた人々もいた。大戦で日本が敗北した1945(昭和20)年当時,日本には200万人以上の在日朝鮮人が残っていた。祖国が解放され,期待を胸に抱いて約52万人が帰国したが,その後,祖国は朝鮮戦争(1950〜53年)で分断されてしまい,日本は1965年に日韓基本条約で韓国と国交を結んだが,社会主義国となった北朝鮮は敵対国で,日本との交流はなかった。日本政府の対応も冷たく,戦時中は法的に日本人として扱われたが,51年のサンフランシスコ講和条約で,日本にいる朝鮮人の日本国籍を剥奪した。当時,朝鮮戦争で国土が疲弊し,労働力を必要としていた北朝鮮と,朝鮮人を国外に追い出したい日本政府の思惑が一致し,在日朝鮮人の北朝鮮への「帰国事業」が推進された。当時,韓国は一方的は日本海に李承晩ラインの水域を設定し,盛んに日本漁船を拿捕するなどして,日韓関係は悪化の一途をたどっていた。このため,日本政府は,韓国との政治的軋轢をさけるため,「帰国事業」を日朝赤十字に委託したが,実際に同胞たちに北朝鮮への帰国事業を推進したのは,朝鮮総連であり,差別で生活の展望を見いだせない在日朝鮮人らは,母国は「地上の楽園」であるという呼びかけに続々と応えた。帰国事業は1984年の第187次まで延々と続き,9万4000人が海を渡った。
●帰国事業は北朝鮮の人質作戦だった
しかし,祖国は金日成(キムイルソン)が支配する独裁国家で,しかも敵国・日本から帰還した帰国者は疎外され,国家や朝鮮労働党の政治を批判すれば,たちどろに強制収容所に送られた。現在,在日朝鮮人の帰国者の子供や孫は,40万から50万人に達すると推定されており,北朝鮮にいる家族・からは,日本にいる親族に食料や衣料品を送るようにと催促の手紙が相次いでいる。彼らは,いわゆる人質なのだ。そういう支援がえられない帰国者の家族は収容所に入れられたり,僻地の土地へ追いやられるなどの迫害を受けており,日本にいる親族の送金がかれらの生命を左右していることは明らかなのである。不景気の日本から送金を続けることに困窮した在日朝鮮人の親族の恐怖心は極限まで達している。いやはや「帰国事業」は北朝鮮にとって,在日朝鮮人をコトトロールするための人質作戦だったということなのだ。
●北朝鮮に渡った日本人妻とその子供たち6300人の行方
上記に記したように,北朝鮮にいる「日本人妻」と呼ばれる人々が日本から北朝鮮に渡ったのは、1959年から1984年にいたる25年間,朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)が中心になって推進された北朝鮮への「帰国事業」によるものだ。本国を「地上の楽園」と呼び,その「理想郷」を信じて「日本人妻」が在日朝鮮人の夫とともに海を渡った。その多くは,祖国に帰って北朝鮮の国家建設に貢献したいという希望に燃えていた。
「帰国事業」が始まる5年前の1953年に朝鮮戦争が板門店での休戦協定で終結した。北朝鮮の国家的な目標は、朝鮮半島を武力で統一することから、経済力で韓国を圧倒することに変わった。(北朝鮮の現状からすると、この計画は大失敗したわけだが) それとともに、北朝鮮が在日朝鮮人に期待する役割も変化した。
朝鮮戦争中は、韓国を支援するアメリカ軍の後方基地として機能していた日本で、撹乱(テロ)活動や反政府意識を高めるための運動を行い、背後から韓国側の戦力を削ぐことが、在日朝鮮人に期待されていた。当時、在日朝鮮人は朝鮮統一民主戦線(民戦)という組織を作り、日本共産党の傘下に入って、革命運動の最先端を行く人々であった。
ところが、朝鮮戦争の休戦後、民戦は朝鮮総連に組織替えし、日本共産党とは一線を画すとともに、祖国北朝鮮との結びつきを強めた。朝鮮総連の活動の中心は、祖国の建設に貢献することであり、在日朝鮮人が日本で経済的な成功をおさめ、貯えた資金を祖国に送ることが奨励されるようになった。
朝鮮戦争で多くの国民が犠牲になった北朝鮮では、それ以前の日本による植民地支配の影響もあり、経済基盤を復興させるための技術者や、その他の高学歴の人々が不足していた。そのため金日成主席は1958年、日本からの帰国を奨励するとの声明を発表し、1959年12月から帰国事業が始まった。
実務は日朝の赤十字が行い、帰国は1984年まで続いた。この間に9万3千人が北朝鮮に移住した。そのうち約1800人が、在日朝鮮人の夫とともに渡航した「日本人妻」と呼ばれる人々だった。このほか、子どもや「日本人夫」も含めると、合計で6300人の日本人が、在日朝鮮人の親族として北朝鮮に移住した。
●その後はぷっつり「消息不明」
その後、北朝鮮に渡った人々がどのような生活を送ったかについては、急に情報が途絶えてしまった。「2〜3年後には日本に里帰りできる」と言い残して北朝鮮に渡った日本人妻たちからも、ほとんど便りが来なくなった。日本に残った在日朝鮮人たちの中には、北朝鮮に渡った親族たちの消息を知ろうと北朝鮮に行ったものの、向こうの担当者から「あなたの親族の消息は、こちらでも分からない」などと言われた人もいた。
断片的な情報をつなぎ合わせてみると、消息不明になった人々は、強制収容所に入れられたり、罪人として処刑されてしまった可能性が高い。それが事実とすれば、なぜ、祖国建設に協力してもらおうと歓迎したはずの人々を、そのような地獄の目にあわせたのか、という疑問が湧く。
その答えとなりそうなのが、朝鮮戦争後、北朝鮮で起きた権力闘争である。北朝鮮の権力中枢にはいくつかの派閥があり、朝鮮戦争後、戦争によって朝鮮半島を統一できなかった原因分析と、その後の国家運営方針をめぐり、対立が始まった。
金日成を中心とし、ソ連や中国に頼らない国造りを目指す「抗日ゲリラ系」のほか、韓国(南朝鮮)で革命を起こそうとしたものの朝鮮戦争後、北に逃れてきた「南朝鮮労働党系」、中国の傘下で国家建設を進めようとした「延安派」(延安は中国共産党の革命拠点)、ソ連の傘下に入ろうという「ソ連派」などの派閥があった。この権力闘争がうずまいた。
激しい権力闘争の結果、最終的に金日成が勝利し、他派の人々の多くが「アメリカのスパイ」などの罪名で処刑されてしまった。この流れの中で、中ソをはじめとする外国と結びついていると目される人々に対する不信感が強くなり、「帰国同胞」(帰胞=キッポ=)と呼ばれた日本からの帰国組の待遇も、マイナス面に働いた可能性がある。
また、日本から北朝鮮に渡った人々の多くは、社会主義の考え方に共鳴した人々が多く,こうした人々は、当時の北朝鮮の一般の人々より、己れの意見をはっきり自己主張する傾向が強かった。こうしたことが、帰胞(キッポ)は危険分子という体制を作っていったとも考えられる。
●金正日(キムジョンイル)総書記就任の御祝儀作りと里帰り
反対派を粛清してしまったため、その後の北朝鮮は、自由にものが言えない雰囲気となり、トップダウンの政策が間違っていても、それを修正することができない硬直したシステムとなっている。こうして、最初は韓国よりも優越していた北朝鮮の経済は、1980年代になるとみるみる衰退に向かった。 北朝鮮政府は偽ドル札を作ってカンボジアや欧州などで換金しようとしたり(日本でも偽札疑惑がある)、覚醒剤など麻薬取引に手を染めたりと、汚ない手段での外貨調達を試みたが、国家財政の窮乏化は人々の暮らしを悪化させ続けた。
北朝鮮が崩壊し、権力の真空地帯ができることは東アジア全体にとって危機的なことだ、とアメリカのクリントン政権などが考えていることを看て取った北朝鮮政府は、30年以上続けてきた強固な「自主独立」の姿勢を捨てて、アメリカや韓国、日本などからの援助によって国家体制を維持する方策に転換した。
しかし,援助要請を掲げて近づいてきた北朝鮮に対し、日本政府がつけた条件のが、日本人拉致事件と日本人妻の一時帰国であった。北朝鮮では1997年10月に金正日が党総書記に就任したが、この時のお祝いに国民に少しはうまいものを食べさせる必要があり,日本からの援助米をもらう代わりに、15人の日本人妻を一時里帰りさせる、という交換条件に応じた。
北朝鮮政府は本来、国民を外国に行かせると、海外の豊かな生活を見てしまい、祖国に失望することになるため、国民をなるべく出国させない政策を取っており,そのため、日本に行く日本人妻は、誰でも良いというわけではない。 選ばれたのは、多くの帰胞(キッポ)が行方不明になる中で、例外的に高い地位と名誉を得ていた15人の女性たちだった。エリートである朝鮮労働党員が少なくとも2人以上含まれていたし、金正日総書記からお褒めの言葉をもらった人や,夫が病院の幹部や外交官という人もいた。 また、帰国事業より前、日本の植民地時代に朝鮮に渡った人や、戦前は樺太(サハリン)にいて、その後北朝鮮に移った人も15人の中に含まれていた。北朝鮮政府がこうした人をまぜたのは、戦前の植民地支配に対する補償要求につなげたいとの意志があったから、とみられている。
●外交の下手くそな弱腰日本
一方、日本政府にとっても、1997年の日本人妻の一時帰国は、在外邦人に対する援助策というより、外交上のカードであった。そもそも、帰国運動で大勢の在日朝鮮人が北朝鮮に渡った際、日本政府は厄介払いができてちょうど良い、と考えていた。当時,在日朝鮮人は、反政府運動や左翼運動の先頭に立っていた。その経緯からすれば、彼らと一緒に北朝鮮に渡った日本人妻もまた、日本政府にとっては、ぜひとも帰国してほしい人たちではなかった。
日本を経由した韓国へのスパイ潜入、日本人の拉致、マネーロンダリング、麻薬持ち込みなど、北朝鮮による日本での工作活動は、日本の公安警察が最大の監視対象としているものである。日本政府としては、日本人妻に関する情報を北朝鮮政府から引き出したいところだった。 しかし結局、北朝鮮政府が選んだ15人の帰国以外には、得たものは少なかった。この背景には、中国残留孤児の帰国以来、厚生省が、日本人妻の帰国事業も手がけたいという意志を持っており、北朝鮮に対して強硬策を取りたかった外務省を押し切ったという経緯がある。両省とも、仕事がなくなると省庁再編で権限を縮小されてしまうから必死だったのである。
外交面からみれば、日本は北朝鮮に完全にしてやられた、といえる。とはいえ、元をたどれば、朝鮮人が日本に住まざるを得なくなったのは、日本の植民地支配が原因であり、在日朝鮮人を今でも差別しているのは日本政府、そして日本社会の方であり,その点に関して日本人は彼らの不幸な背景を察してやる配慮を忘れてはならない。
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