|
|
■■■
■■
■ 回転ドア事故 考察
ここ数日、テレビのニュースなどを見てふと思うことがある。 それは六本木ヒルズで起きた事故。 5歳の少年が、回転ドアに挟まれて死亡するという痛ましい事故であった。 しかも事故直後から森ビル側やドアメーカーは、互いに責任のなすりあいをし、 テレビや週刊誌など、マスコミメディアがこぞってその醜態を報道している。 なんだか騒ぎ過ぎであるような気がしてならないが、 ワイドショーのコメンテーターなども、一様にその責任を糾弾しており、 誰もが森ビルやメーカーに対して怒りを覚えていることだろう。
ところがである。 ふと冷静になって考えてみると、この事故の責任の所在はもう一箇所あるのではないか。 子供が手を振りほどいたとはいえ、手を離した親にも責任の一端がないだろうか? 当然のこととして、報道する全てのメディアはこの事実に気が付いているだろう。 しかし、あえてその部分についてコメントする人がいないのは、 亡くなった少年の冥福を祈る心と、残された遺族への配慮なのかもしれない。 が、その部分を曖昧にしていいものかどうかも考える。 異常とも思えるほど過熱するマスコミ報道によって、 森ビルやメーカーの100%の非と受け取る人が出てくるかもしれない。 それが果たしてよいのだろうか?
よくよく考えてみれば、 回転ドアに挟まれたのは親の責任。 挟まれて死亡に至ったのはメーカーの責任。 危険を認知していたにも関わらず、対策を放置していたのは森ビルの責任。 以上3者それぞれの責任が明確であり、何も複雑なことはないとは思うのだが。
子供は興味のあるものに向かっていく傾向がある。 それが危険であるかないかなど二の次であるし、 それらの判断力がまだまだ未熟でもある。 だからこそ、傍に親が付いてそれを教えていかなければならないはずだ。 例えば道路で子供が飛び出した場合・・・ 手を離してしまった結果、子供が事故に巻き込まれたら単純に運転手を責めれるだろうか? 状況が違うとはいえ、 回転ドアは大人ですら入るのを躊躇する人もいる。 そのくらいの認識はあってしかるべきだ。 エスカレーターですら、子供はタイミングを取りつつ乗るものだ。 まして回転ドアなど・・・論外。 手を離した責任、日頃子供に対して注意を喚起しなかった責任、 叫んでも止まらなかった子供に育ててしまった責任、 色々な部分において母親の責任を回避できるものではない。
しかしこの母親・・・ 通夜の席で森ビル側の来訪を追い返したその姿には、 己の反省を考えず、どこかにその責任を転嫁したいのでは・・・ など疑う気持ちが芽生えてしまう。 また、いずれ起こすであろう賠償責任裁判なども視野に入っているのかもしれない。 (もっとも裁判を起こせば、母親の責任もかなり追及されるはずだが。。。)
別に・・・この母親だけが悪いと言っているわけではない。 一般的に、この手の母親が増え続けているのは確かなのだ。 昨今よく見かけるスタイルとして、親が人のせいにして子供をしかる場面がある。 例えば電車内で騒ぐ子供に、 「みんなに怒られるからやめなさい」とか、 靴を履いたまま座席に立とうとする子に、 「隣の人の服が汚れるからやめなさい」とか。 それは明らかに違うだろう。 みんなが怒るからやめさせるのではなく、服が汚れるからやめさせるのではなく、 静かにすることがマナーであるし、座席に靴のまま立つこと自体が間違っているだろう。 おまけに、子供のせいで自分が注意されたことに腹を立てる母親もいる。 こうした親たちともいえない・・・未熟親が増えていることも事実である。
いずれにしても今回のこの事故は、特別扱いされすぎである。 たまたまテレビ局に向かう途中であったからといって、 日本の総理大臣が、あるいは知事らが続々と献花する姿は、 何かパフォーマンス的なものを感じてしまう。 親にも責任の一端があるこの事故の被害者と、 先日某車メーカーが非を認め、リコール問題となった事故の被害者と、 どちらに落ち度があったのかは明らかである。 そのような理不尽に命を落としていった被害者全般に対してではなく、 回転ドアに挟まれるというその事故の特異性にと話題性に目を向けているだけ・・・ そんな気がしてならない。
今回の問題において回転ドア撤去の話も出ているようだ。 確かに日本の建造物においては回転ドアの必要性は薄いかもしれない。 然しながら、これは普通の自動ドアにも起こりえる事故であるし、 あるいは一般の押し開きのガラスドアに至っても、 前の人が押して入った後の反動により怪我をする人も出てくるかもしれない。 そう考えてみると、事は回転ドアが悪いとかそんな問題でもない気がする。
2004年04月06日(火)
|
|
|