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| 2003年05月18日(日) |
What's in a name? |
名前ってなに? バラと呼んでいる花を 別の名前にしてみても美しい香りはそのまま (シェイクスピア『ロミオとジュリエット』)
様々な名前がある。 性別、国籍、人種、民族、職種、子供・大人、正常・異常……etc. 名前が本質なのではない。 でも、名前を判断材料に(意識するにしろしないにしろ)加えることがある。 それは処理容量の節約のために人間の脳がそうなっているのかもしれない。 そういう行動情報学の見解もある(これは「行動情報学」という名前による権威付けだが)。 あらゆることに対して偏見なしにきっちりと考えていると、処理しきれない。 だけど、ときにはそれをやめて思考することも大事だ。 あらゆることに対しては無理でも、いくつかのことについては可能なのだから。
ときどき、俺のバックグランドを聞いて俺をある種の典型的で陳腐なカテゴリーに当てはめようとする人がいて、そのことに対する不快感から来る考えでもある。 だけど、おそらく、俺も自分が気づかないところで誰かに対して同じような不快感を与えたことがあるのだろうと思う。 そういうことを認識するところから始めていったいどこまで来れただろうか。 そしてこれからどこまで行けるだろうか。 もしかしたら、年を経て様々な知識を蓄え経験を積むにつれ、こういったことについては退化していくのかもしれない、とも思う。 より単純に物事を割り切ることで、膨大に膨れ上がった日々の情報をなんとか処理している。そんな自分になっていくのではないだろうか。すでになっている部分があるのではないだろうか。なぜなら、普通(「普通」という名前は便宜的なものだが)に生きていく限り、受け取る情報量は増えていくからだ(ただし、量は増えても密度(新鮮さ)は減っていく。だから、より単純に処理するようになる)。 単純化というのは人間が獲得していく能力の一つであり、必要なことでもあると思う。 ただ、必要なことがいつも適切なことだとは限らない、というだけのことで。
『大人になるほど、どんどん単純に向かうんだよ』 (森博嗣『数奇にして模型』)
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