DiaryINDEXpastwill


2003年04月06日(日) 主張する映像

現実をある画面内に切り取ること。
写真であったり、ビデオであったり、フィルムであったり。
切り取った時点で、その前とは異なるのだけど、
切り取り方によっては、「現実」が表わすものをより強調することができる。
受け手の解釈を誘導するように演出することもできる。
切り取られた画面には、切り取った者の意図が加わる。
つまり、それが、映像表現、というもの。
(もちろん、被写体のポテンシャルにも左右されるのだけど)

『ああいうフィルムほど人を勇気づけるものはないよね、彼らは無邪気で、真剣で、途上にあって、若くて、しかも現実にはすでに権力を握っているんだ、スピードの頂点にいるわけさ、ボク達を撮ったものはどうなのかな』(村上龍『愛と幻想のファシズム』



何かを表現するための手段はいろいろとあって、
言葉、音楽、映像、これらは最もポピュラーな手段。
でも、言葉以外は、使わないことが多い。
音楽も映像も氾濫しているといっていいほどだけど、
ほとんど一部の人間だけが生産・創造していて、
それらを受け取るのが、その他大多数。
言葉だって、十分に表現しようと思えば、
誰にでもできるわけじゃない。
(だからこそ、たとえば小説家というのが職業として成立するのだけど)
だから、たいていの人間は、
何かを表現するのに、ポピュラーでない手段を使う。
というか、それを探している途上にいる。
自分の生き方を模索している、といってもいい。
表現とは、自分だから。


sora |MAIL