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| 2003年03月02日(日) |
目的の犠牲としての手段、そうでなく幸福としての手段 |
目的を達成するためには手段がいる。 やりたくはないけれど、目的のために取らざるを得ない手段。 これは、目的のために死ぬ手段。持続させるのに困難を伴う手段。 手段そのものに対して、その目的に匹敵する満足感を得られるとき。 これは、幸福な手段。持続させやすい手段。
『われわれの日常生活では、目的が手段に、手段が目的になっている状態を幸福と呼ぶことが多い。私はふだん自分の妻を快楽や便宜を達成する手段としているが、しかし、病気の妻を看病することになったとき、看病は私自身の生き甲斐になるだろう。理屈で考えれば、妻は自分の快楽の手段である、妻の健康を回復しようとすることは、自分の利益になるという目的と手段のつながりが成り立っていることになる。しかし、それは嘘である。妻の看病をすること自体が、自己目的となることができる。目的と手段が一致していることが最高の幸福なので、目的のために手段が犠牲にされることは例外的な、それ自体不幸な場合である。』 (加藤尚武『戦争倫理学』)
不幸な場合も時としてあるのだけど、 それは乗り越えるべきハードルだと思うことにする。 その先を、目指して。
(恵まれているから、簡単に「乗り越える」などと書けるのかもしれないけれど)
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