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2002年03月25日(月) 運命の螺旋

また実家から更新。

最近、というか、もうずいぶんになるかな。
「だらかどうした」と思うことがある。
何をやっても、「それが何になる?」と心のどこかで(いや脳のどこかで)思ってしまう。
3月9日の日記にも似たようなこと書いていますが、いまもそれは変わらない。
ソルトレーク・オリンピックをTVで見ていたときも、「何でこの人たちこんなことをこんなにがんばれるんだろう」と思いながら眺めていた。だからほとんどオリンピックは見ていない。確かに彼・彼女の演技を見て感動したり凄いと思ったりはするのだが、「だからどうした?」となる。
俺は、自分以外の誰かががんばっている姿を見て励まされることはあっても、それをまるで自分のことであるかのように興奮したり感動したりすることはあまりない。たとえば、なぜ自分の好きな野球球団が勝ったら自分も嬉しいの? 自分が何かをしたわけじゃないじゃん。と、思ってしまう。しかも、その球団が負けたときには文句を言ったりする。都合がいいな、と思う。勝ったときは自分のことのように喜び、負けたときは選手のせいにする。自分は絶対に困らない立場から野球を楽しんでいるのだ。それが、悪いというわけではない。なぜなら、彼らプロ野球選手の仕事は、そういう観客の期待に応えることでもあるからだ。
しかし、先ほど述べたオリンピックの選手たちは、観客の期待に応えるために演技をしているのだろうか? そんな馬鹿なことはないはずだ。自分のために演技をしているはずだと思う。では、なぜ、そこまでその競技に夢中になれるのか? それは、「なぜ?」と考えるよりも以前の衝動によって、彼・彼女が駆り立てられているから、だろう。だが、それでは説明にならない。「なぜ」そのような衝動が人間には存在するのか、ということが説明できない。まあ、脳の研究が進めば、「石を手から離せば鉛直方向に落ちる」くらいに自明なこととして語られるようになるのだろうけど、それに期待しても俺が生きている間には解明されそうにない。何より、「夢」がない解答になる。人間は「夢」がないと生きていけない。一見「現実合理主義・夢がない」と思われているかもしれない科学者だって、「夢」があるから研究ができるんだ。今よりももっともっと面白い不思議に出会うために研究しているんだから。
意味がない(かもしれない)ことを追い求める、役に立たない(かもしれない)ことをしたがるのが、人間という生物なのかもしれない。ここで、「なぜ」人間はそういう生物なのか? という疑問が出る。しかし、順番が逆ではないだろう? 何の順番か? それはつまり、人間が「意味がない(かもしれない)ことを追い求める、役に立たない(かもしれない)ことをしたがる」生物であるからこそ、今、「なぜ人間は意味がない(かもしれない)ことを追い求め、役に立たない(かもしれない)ことをしたがるのだろう」という疑問を持っている俺が存在しているからだ。人間以外の生物が、こんな疑問をそもそも持つだろうか? 人間が、(現在認知されている人間以外の生物と比較して)ここまで「発展」してきたのは、まさに人間がそういう生物であったからだろう。そして、いつの時代にも、上述したような疑問を持つ人間はいた。繰り返し回りつづけている。ただ、円を回っているのではなく、螺旋を回っているのだと、思いたい。螺旋なら、いつか終わるだろうから。


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