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■ 衛生看護科
閉科のからみで研究室にお邪魔して、必要な話は20分くらい。 あとは3時間くらい世間話やら生徒さんの論文の指導してました。
学生のときの担任に会いに言ったんだけど、看護科がなくなったら先生どうすんの?って聞いてきた。 歳だってうちの親と同じくらいだし、病院勤めするのか、はたまた養護教諭とかするのかな?とか思ってたから。 でも、もしかしたらこのまま学校に残ることになるかもしれない、とのこと。 何で?って思ったら、今の校長が施設もそうだけど、看護科があったっていうことを残したいって言ってくれてるんだって。 で、選択授業で基礎看護を何単位か、あと介護の授業を何単位かつくりたいらしい。 で、ヘルパー3級の資格がとれるように申請中なんだって。 確かに20台もベッドがあるわけだし、リネン類も大量にあって処分しちゃうのはもったいない。 活かせるものなら活かしたい気はする。
それに、恩師に会いに行くってことが出来るのは結構大きい。 なんかあったときに、話聞いてもらったりして「頑張ろう」って思えることもあったし。 ・・・なぜか先生の愚痴を「うんうん」て聞いてたこともあったけど。苦笑 最後に巣立つコたちが、帰ってこれる場所があって良かった。 あ、オレいい人みたい。(ぉぃ
途中で、先生が論文の指導してるときに「更夜ちょっと見て」ってまわしてきた。 進学先に出すやつらしいんだけど、ここをもうちょっと違う印象にしたいんだよねぇ、って。 テーマがあって、「実習で学んだこと」だった。 先生が郵便局にいかなきゃいけないっていうからそのコと向かい合ってたんだけど、すげぇ緊張した。 学生のときって、とかく「こんなことしか出来ない」「これだけしか出来なかった」っていう風に自分を卑下しがちなんだよね。 もちろん、医療的な処置なんかほとんど出来ないわけで、目に見えることって数えるほどしか出来ない。 でも、看護学生ってすごい微妙な立場で、患者さんが家族に言えない弱音とか、医者や看護師に遠慮したり尻込みしちゃって言えないような本音を、唯一吐き出せる場所だったりするんだよね。 だから、そこにいて話を聞いてくれる、また何曜日に来ますね、って言って必ず来てくれるってことが、実は支えになってたりする。 でも、そういうことって意外と気付けないんだよね。 そのときって。 それも、受け持った方が元気になって退院してったならまだしも、悪化の一途をたどって亡くなった場合や終末期なのが分かってた場合、苦しんでる姿を目の当たりにしてて、でも何も出来なかったっていう思いが強く残っちゃう。 自分が必死だから、苦痛を取るっていう点においても医療の限界があるんだってことに気付けなくて、全部自分の力不足なんだって思っちゃうから。 で、そのコもそう。 「これだけしかできなくて」っていう感じで卑下した文章が書かれちゃってるから、学んだことっていうよりも反省文みたいな印象になっちゃってて。 でも、読んでみれば、その患者さんが涙ボロボロ流して「なんであたしは・・・」みたいに感情をぶつけてるんだよね。そのコに。 それって実はすごく大きいこと。 話を聞いていくと、そのコは身体に対しては限られたことしか出来なかったかもしれないけど、その患者さんの心に対してはすごく近くにいて、信頼も得ることができて、限られた実習期間の中で、一人の人の心に寄り添っていられたと思う。 だから、そんなに卑下しなくていいんだよ、って話した。 どうにか好印象にまとまって一安心。 結局、3人くらいの論文指導して、先生は緊張したオレに労いのチーズケーキをくれましたとさ。
振り返ると自分もそうだなって思った。 学生の頃なんか特にそうだけど、誰々が採血させてもらったと聞けば「自分はこれだけしか出来なかったのに」って焦ってみたり。 検査があるときけば是非見学したい、とか。 患者さんを受け持って、その人に対して何が一番必要なのかってことよりも、「今日は何が出来た」っていう目に見える成果を求めてた。 ・・・今もそうだな。 そんな気がする。 そうじゃなくて、もっと目の前にあるものに目を向けないといけないな。
2004年01月15日(木)
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