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■ 西伯利亜日記
今日、会社のお使いで本郷3丁目まで出かけて、駅の角に一軒古本やさんがあるのでちょっとだけ寄り道したですよ(こらこら)。ああ、こないだ買いそびれたジョン万次郎の本でも買うかな、と思ってちょっと見たらA4サイズの和綴じの本があって、…亜日記って書いてあるのが見えたんですな。 で、手にとって2〜3ページめくってみたら「本書は父榎本武揚が…」と書いてある!速攻でレジに持って行きました。2500円でした。 文章は勿論体裁も原本のまま写したものであると書かれており、中に写真とか図版とかもついてましたv でも巻の一しかないんです。日付にして明治11年7月26日から9月12日まで。巻の二も揃っていたらこの値段では買えなかったのかもしれませんが。 釜さんのシベリア日記は加茂儀一の「資料・榎本武揚」に載っていて、こちらは現在未整理本の中に積まれております(笑)たしか4000円でネットで買ったのです。日記、少しだけ読みましたが釜さん、日々「ワンドロイス」と戦っておったようです。
日曜日は掲示板にも少し書きましたが横須賀で佐々木譲氏の講演があり、飛び入りで聴講させて頂きました(汗)本当ははがきで申し込んで入場券を送ってもらわないといけなかったのですが、何人か欠席の方がいたとみえて開講間近になったら中に入れてもらえました。 で、前のほうあいてますからどうぞ、と通された席が佐々木先生かぶりつきの位置だったという…残り物には福があります。といいますか、非常に緊張いたしましたです。(小心者)
講演タイトルは「中島三郎助」。 佐々木先生はいま神奈川新聞で「くろふね」という小説を連載していて、それ前にも榎本武揚の生涯を描いた大作「武揚伝」を書かれているので、取材エピソードやこだわりの佐々木説などを披露されました。中島三郎助については地元の皆さんのほうが詳しいと思うので、横須賀から離れたところの話を…と前置きして主に長崎海軍伝習所時代の話をされました。
中島三郎助は元々砲術の専門家でありまた、手引き書だけで鳳凰丸を作ってしまうという非常に優秀な造船技術者でもあった。幕府は外国船に備えて大型の船を造り操船できる専門家を育てるのが急務だったので、当然中島にも声がかかったものである。
さて、中島は長崎海軍伝習所の1期生で、そのときオランダ語ができるというので勝海舟なども同期だった。
長崎海軍伝習所の修業年は1年6ヶ月。 勝などは語学は得意だったがほかの科目(天文学とか物理とか航行学)がからっきし駄目だったのであえなく落第となった。 中島は卒業できることになっていたのだが、そのとき長崎にあった練習船「観光丸」は外輪船であって、次期教官がオランダから乗ってくる船が最新型の「蒸気船」だったのでそちらの操船も勉強するように幕府から指示され、もう1期勉強することになったものらしい。 ちなみに榎本武揚は1期から勉強していたのだがそのときは聴講生で、2期目から正規生として勉強するようになった。(オランダの教官カッティンディーケ先生の回想録によると、榎本武揚の名前が1期生の中にある)
榎本と中島はこの長崎海軍伝習所で親交を結び、勝とはこのころからどうもそりが合わなかったらしい。ちなみに後に榎本はオランダに留学する際、行きの船がセントヘレナ島に寄ったとき、中島あてに手紙を1通出している。ナポレオンのことを詠んだ漢詩が書かれていて、そのような心情を伝えたかった一番の友が中島三郎助であったというところに注目したい。
講演は以下もっと続く…なんですがちょっと休憩。
この日、5月に箱館五稜郭祭でお目にかかった友達に再会。三浦にお住まいのkさんでした。やーどもどもお久しぶりー!などと挨拶を交わしましたが、箱館にて初対面の方と横須賀で再会するとは!幕末関連は狭いサークルであちこちつながっておることを実感します。講演のあとは佐々木先生に持参の本にサインを頂き(これは武揚伝ではなく愛読の「ベルリン飛行指令」でしたv実は武揚伝の作者がベルリンの作者だとはついこの前まで知らなかったのだった!なんだかペリーの船に乗った中島三郎助が箱館で死んだ中島三郎助と同一人物だったとは知らなかった! とおっしゃる佐々木先生に近いものがあります)、その後kさんと一緒に別館で展示されている中島三郎助展を見学することに。 展示ではアメリカ人が書いた「ペリー提督久里浜上陸の図」に中島三郎助が描かれているのを確認したりして「わーわー、きゃーきゃーv」と楽しく見て回りました。 そのほかに中島三郎助直筆の手紙、掛け軸などが展示されていましたが、さすがに達筆。あと、中島のお父さんは俳句もたいした詠み手で、号は木鶏といいますが、奇しくも清河八郎と同じなんですね。実はかの木戸孝允も桂の字を崩して木圭という号を使っているんですが、これはかつての師匠を意識してのことか? などというコメントが書いてありました。
木鶏師匠の作品(家族宛の手紙の中で)
西上人の古詠を思ひて われもまた花のもとにと思ひしに若葉のかけにきゆる命歟(か)
西行を慕っていた人といえば高杉晋作を思い浮かべますが、彼のは
西に行くひとを慕うて東行く
…だいぶ趣が違いますの。
余談ながら、当日会場に中島三郎助の御子孫がいらっしゃっていたのですが、中島三郎助にそっくりなご容貌、間違いなく中島家の方だと思いましたです。
2003年07月16日(水)
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