ベルリンの足音

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2009年09月16日(水) 覚書

美しいものはなぜ美しいのか。

刹那、儚さ、限界、消滅、悲しみ、痛み、傷…

きっと数々のそういった状態や感情と常に混在しているからなのだと思う。

夕日も、人生も、何もかも美しいものには、終わりがあって痛みがあって、悲しみがあり、通り過ぎていくだけの刹那がある。

結局、小説も詩も音楽も、そういうなにかを美しい物だと感じる感性から発生すると考えれば、なぜ世の中の芸術に、メランコリーが多いのか理解できる木がする。

生きている限り、メランコリーから解放されることはない。

そう思えば、今抱えているメランコリーとも、一緒に生きていかれる気がする。

大切なのは、皆を理解するとか、皆をに理解されたいとか言うことではなくて、飽くまでも個人の領域で、そのメランコリーとの共存を語っていくことではないだろうか。

それぞれにそれぞれの波動と波長があって、それが絡み合って社会がある。
その中で、たった一人でも、君の言っていることががわかるよ、という人にめぐり合えたら、自分は心を開けるということではないだろうか。


数々の嵐のような出来事につぶされるのではなくて、それを付随するものとあきらめて付き合うこと。

そして、その中から少しでも何か生産していくこと。

これでとりあえず前に進める。

わからないことはわからないままに、答えの出ないことは答えを出さずに、筋道の合わない過去は、筋道をつけずに、とにかく性急にならずに、アンテナをめぐらせて自分と周囲を見つめていくこと。

それが、一番の安全運転なのかもしれない。

そう思えれば、メランコリーに圧倒された人生を殆どいとおしいと思うから不思議だ。

人はそれでも、しがみつく様に「美しい」瞬間と感性を求める。

もうちょっと先まで歩けそうな気がしてきた。
もうちょっと答えを出さずに、一歩分では耳を済ませて歩こうと思うようになって来た。


自分とのつながりを断ち切らないこと。


momoline |MAIL

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