二ノ宮啓吉の区政日記
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2005年08月20日(土) 慌しい今年の旧盆

 毎年女房に感謝の旅をプレゼントしているが、今年は突然の総選挙の日程が入り予定を切り詰めて暑い「ベトナム」に行って参りました。
何故ペトナムかと言うと私の知人が一度は見ておけとアドバイスを頂き旅行社に予約を入れてくれたのが8月1日。しかし国会で郵政改革に雲行きが悪く成り、旅を中止しようと知人に連絡すると七日間を五日間に短縮しても元気な内に行って来いとの返事。自民党の支部長にその事を説明して出発。

★ベトナムの首都ハノイ
30年前アメリカと戦ったのにホテルに着くとお支払いはドルですかと聞かれる、空港でベトナムの通貨ドンに両替してあるのでドンを見せると、変な顔をしている、知人に聞くとベトナムの通貨は価値が低く変動するのでドルがありがたいとの事、変な国だこと。空港からホテルに着くまでが大変だ。
市内に近づくにつれ、道路一杯にオートバイの列、交通ルール無視、ヘルメット無し、三人乗り四人乗りはお構え無し。死亡弁済金は一人大体二十万円
でまともに払ってくれないそうで、我々が事故にあったらどうするのか不安になる、旧市内とハンザ市場を歩いて暑い中を行ったが道路き汚く、女性の活躍が目に付く、男は何をしているのか。

 ハロン湾(世界遺産)との事で知人の乗用車で片道130キロとの事だが何とサーキット並の交通事情で3時間半も掛かりやっと着く。
確かに水墨画のような海の桂林だったが、帰り交通状態を思うとゾットする
行き帰りで一日つぶしてしまった。

★ホーチミン市(サイゴン)私はサイゴンの名前に懐かしさを覚える。
ベトナム戦争以前は南ベトナムの首都である。
中心街は仏領インドシナと言われたくらい、フランス様式の建物があちこちに有り、ハノイより清潔感がした。相変わらずのバイクの波、早朝からクラクションの音で目を覚ます。我々二人でガイドブックを頼りに簡単なベトナム語の本を見ながら、南北統一会堂・中央郵便局・ベンダン市場・を見て歩く、次の日は美術博物館と戦争証跡博物館を見学した。
1965年3月8日アメリカ軍がダナンに始めて上陸。
入り口の「回顧録」にアメリカ国防長官のマクナマラ氏の言葉が印象的。
「私達は誤ちを犯してしまった、重大な誤ちを、私達は将来の各世代に対して負債を負い続けなければならないだろう。過去を見つめ返そう、ベトナムでの悲劇や数々の教訓を-----」。
 ベトナム戦争を遂行するに当たり、アメリカ政府は650万人の若者を動員し、南ベトナムの地に543.400人のアメリカ兵が駐屯。
785万トンの爆弾を落とし、7.500万リットルのダイオキシン枯葉剤わばら撒き、戦費は3520億ドルを費やし、300万人のベトナム人が死亡、4百万人のベトナム人が負傷、58.000人のアメリカ兵が死亡した。
ホール爆弾の大量殺傷弾・ナパームのやけど・枯葉剤による奇形児のホルマリン漬け。拷問。報道写真家の石川文洋氏の写真が沢山張られ澤田報道写真家のカメラが印象的。
沢山の外国人が目を細くして見ている姿が何とも言えない複雑な思い出あろう、特にアメリカ人には。
以前私も中国北京の抗日記念館も拝見したが、彼らも同じ気持ちではないかと思う。

選挙のマニフェストにある党はアジア外交を重視の公約が出ているが、戦争をした方も、された方も、平和を求める気持ちは同じである、こればかりは見て、聞いてこなくては戦争の悲惨さは解らない。

憲法9条を改正して軍隊を海外に派遣を懸念しているが、これからの日本の役割は、平和維持活動、選挙監視活動・災害援助活動のみの平和的に限定すべきであり、二度と他国の人民を国のために殺してはならない。

総じて物価も安く・勤勉なベトナム人、アオザイを着た美女・よく働く婦人
これからはインドシナ半島が経済の主流になりつつある気がした。

お金持ちになったような気がする、ベトナムのドン。
一万ドンが約70円・十万ドンが約700円でやっと百50万ドンが約1万円小額紙幣は汚くてすぐチップにしてしまう程。

さあー明日から総選挙の準備に掛かろう、頑張って当選を目指して。
最後の戦いになると思う、三度目の勝負。
 


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