LORANの日記
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2004年05月18日(火) 南方熊楠

今日、5月18日は南方 熊楠(みなかた くまぐす)の誕生日です。

南方熊楠は植物学、博物学、民俗学ほか天文地理から細菌発見に至るまで、天才の名を欲しいままにした大学者です。

南方熊楠は慶応3年(1867年)、明治維新の前年に和歌山城下に生まれました。
小学校の頃、友人の家にあった和漢3才図会(図入り漢文百科)全105巻を暗記しては帰宅して5年で筆写しました。中学時代は漢訳一切経3300巻を筆写し、欧米の人類学や解剖学の原書を読みふけるという神童ぶりを発揮しました。

東京大学予備門(旧制1高)に入りましたが飽き足らず、退学して20歳でアメリカへ渡りました。ミシガン州の農学校に入学しまいたが、レベルに満足せず直ぐに退学しました。フロリダの食料品店で働きながら植物類を採集して研究する生活をしました。さらにキューバへ渡り採集と研究をしました。超人的な記憶力で、この頃には18ヶ国語に通じていたと言われます。

26歳で世界の頂点と言われた大英帝国の首都ロンドンへ渡りました。到着早々、英国の最高権威を誇る週刊科学誌「ネイチャー」が星宿構成について募集していた論文に応募しました。世界各国の天文学者や大学教授を抑えて、熊楠の論文は最優秀に輝きました。熊楠の名は世界中に知れ渡りました。

国立ロンドン大学長ディキンスは「最も博学で剛直無偏の人」と讃えました。

大英博物館でダニエルという閲覧者が、熊楠に嫌がらせを繰り返しました。東洋人蔑視があったのでしょう。日清戦争後の三国干渉で遼東半島を手放したととでからかわれた熊楠は、「祖国を侮辱することは許さない。」と言って、皮靴で蹴りを入れ顔面に頭突きをくらわせました。 勇気と正義感は誰にも負けません。

博物館の仕事をしながら寄稿をしたりして糊口をしのいでいましたが、「ボーア戦争」で国家予算が窮屈になり、大学の日本学講座の助教授の枠が無くなりました。

アメリカ在住6年、ロンドン在住8年、20歳で海を渡った熊楠は34歳になっていました。

1900年9月1日、リヴァプールを丹波丸で出発し帰国の途につきました。

開国したばかりで西洋に遅れていた日本人の中に、熊楠のように劣等感をもたず、自分自身に自信と誇りを持った大人物がいたことを知り、嬉しくなりました。

南紀熊野の豊かな自然の中で自由人として独自の学問を展開しました。
親交のあった柳田国男氏も「日本人の可能性の極限」と賞賛しました。

世界でもトップクラスの知能の所有者を当時の学会のレベルでは理解されずに埋もれさせてしまったのは、人類の進歩にとってとても残念なことでした。

熊楠のような破格の自由人が、現代の管理社会からは生まれないのが残念です。


資料抜粋 = http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog247.html


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