LORANの日記
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2004年05月11日(火) 自由と平等

戦後の日本国憲法で、基本的人権として「自由と平等」が保障されています。
「自由と平等」は普通、考えているようなものではないと思います。

言葉の意味は誰でも知っていますから省略します。
しかし、ここで言う「自由と平等」は単なる言葉ではなく、それが持つ意味が問題です。

欧米では、「自由と平等」を獲得するために多くの血を流しました。
フランス革命やアメリカの独立戦争、ロシア革命など国民が戦って獲得したものです。
第2次大戦後、植民地支配から独立したアジアやアフリカ諸国も血を流しました。
日本が支配していた中国、南北朝鮮、台湾なども多くの犠牲を払いました。

ですから、「自由と平等」は血と涙で勝ち得た貴重な成果なのです。
これを侵害されたら、命がけで戦います。

日本は革命が起こったことがない、とても不思議な国です。
日本では権力者が入れ替わるだけの歴史が続いています。
135年前の明治維新も、60年前の敗戦も、権力者が入れ替わっただけでした。

血で血を洗う抗争が無かったことはとても幸運だと思います。
しかし、権力者に従順に従うだけの無気力な国民であることも事実です。

敗戦で焦土と飢餓に苦しんだのもつかの間、朝鮮半島で戦争が起きると日本は特需景気にわきました。
戦後、実施された農地解放で小作農家は労せず貴重な田畑を手に入れることができました。高度経済成長で農地の宅地化が進むと、一気に大金持ちになりました。

ただ従っていれば「棚からぼたもち」でいい思いができると思ったのでしょう。
このような国民性では、占領軍の指示で得た「自由と平等」は無用の長物でした。

「自由と平等」の根底にある「燃えるような自己主張」が存在しないからです。
まるで去勢(気性を穏やかにするためにオスの睾丸を切りとること)された家畜のようです。

外部世界へ向わないエネルギーは内部世界へ向います。
内部世界、即ち社会や家庭内の陰湿なイジメや差別へ変わります。
子どものイジメはおとなの世界でしていることを写しているのに過ぎません。

また、自分の無気力を肯定する傾向を生み、自分の責任を認めません。
「みんながやっているからやった。」
「命令されたからやった。」

自分が無知であることさえ、恥じるどころか居直っています。
無気力、無知であっても、今まで生活できたことで当然と思っているからです。

「自由と平等」は無気力で自己責任をとれない人には意味がないのです。
日本国民は政治家も含め、「自由と平等」は無用の国民です。


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