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2011年07月19日(火)
「私の両手は血に濡れています」

『おおきなかぶ、むずかしいアボカド〜村上ラジオ2』(村上春樹著/大橋歩画・マガジンハウス)より。

(「並外れた頭脳」という項より)

【世の中には、どう転んでもかなわないというすごい人がいる。そんなにいっぱいではないけれど、たまにいる。
 たとえばロバート・オッペンハイマーがそうだ。オッペンハイマーさんのことは知ってますか? 第二次大戦中、核爆弾開発の中心となったユダヤ系アメリカ人の物理学者で、「原爆の父」と呼ばれている。ずいぶん前に亡くなったし、僕も直接お目にかかったことはないけれど、並外れた頭脳として世界に名を馳せた。
 たとえば彼はあるときダンテを原書で読みたいと思い立ち、ただそれだけのために一ヶ月でイタリア語を習得した。オランダで講義をすることになって、「じゃあまあ良い機会だから」と六週間勉強し、オランダ語が流ちょうにしゃべれるようになった。サンスクリット語にも興味を持ち、『バガヴァッド・ギーター』を原典で読みふけった。とにかく興味のおもむくまま、少し意識を集中するだけで、たいていの物事はすんなり習得できてしまう。普通の人にはそんなことまずできないですね。彼が天才であることは、誰がどこから見てもすぐにわかった。
 ただしそんな彼にも政治的なセンスだけは欠けていた。夢中になって原子爆弾をこしらえたのはいいけど、その実験を目の前にして「私はなんという恐ろしいものを作り上げてしまったのか」と真っ青になった。広島に原爆が投下されたあと、当時のトルーマン大統領に向かって「私の両手は血に濡れています」と言った。大統領は表情ひとつ変えず、きれいに折り畳んだハンカチを差し出し、「これで拭きたまえ」と言った。政治家ってすごいですね。】

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 このロバート・オッペンハイマーさんとトルーマン大統領の話、村上さんが「原発」について言及した「カタルーニャ賞」のスピーチにも出てきます。
 この本に収録されているエッセイは、『anan』の2011年3月23日号までに掲載されたものですから、これが書かれた時点では、2011年3月11日に、あんなことが起こるとは、村上さんも予想していなかったはずです。
 スピーチにこのオッペンハイマーさんのエピソードを入れることは、考えておられたかもしれませんが。

 ロバート・オッペンハイマーさんは、まさに「天才」だったわけですが、「政治的センス」というか、あまりに「目の前の仕事」に集中しすぎてしまって、「自分がやっていることが『現実』に及ぼす影響」への想像力が、欠けてしまっていたような気がします。
 彼ほどの「天才」であれば、「原子爆弾の威力」は、数字の上では理解していたはずなのに。

 そして、このエピソードで僕が考えてしまうのは、「私の両手は血に濡れています」というオッペンハイマーさんの「懺悔」を聞いたときの、トルーマン大統領の反応でした。
 トルーマン大統領は、オッペンハイマーさんの言葉が「たとえ話」であることを、よく知っていたはずです。目の前にいた人の手が実際血にまみれているかどうかは、すぐわかるでしょうから。
 にもかかわらず、トルーマン大統領は、即座に「きれいなハンカチ」を差し出しました。
 それで、オッペンハイマーさんの「手についた血」が拭えないことは、承知のうえで。

 もし、トルーマン大統領が、オッペンハイマーさんを「これはアメリカを、世界を救うために必要な犠牲だったんだ」と言葉を尽くして「説得」しようとしたのならば、それが日本人にとって正しいかどうかはさておき、そういう態度を「理解」はできるんですよ。
 でも、トルーマン大統領は、そうせずに、ハンカチを差し出した。

 これは、トルーマン大統領が、本当に「人の心の痛みを理解できない人」だったのか、それとも、「お前がどんなに自分を蚊帳の外に置こうとしても、いまさらもう手遅れだし、これが『現実』なのだ」と思い知らせようとしたのか?
 たぶん、後者なのだと僕は想像していますし、そのくらいの冷徹さがなければ政治家、とくに戦時の政治家なんて務まらないのでしょうけど……

 どんな偉大な才能も、使われる方向によっては、「より大きな悲劇」を生み出すだけになってしまいます。
 ちなみに、村上さんのこのエッセイによると、その後のオッペンハイマーさんは、
【彼は大量破壊兵器を世に送り出したという心の重荷を抱えつつ、残りの人生を送らなくてはならない。なんとかその埋め合わせをしようと務めるのだが、もともと向いていない政治の冷徹な世界に深く巻き込まれ、更に傷ついていく】
とのことでした。

「天才」でありながら、自分の能力の使い方について、あまりに無防備であるというのは、「大きな罪」なのかもしれません。
「日本には本物の政治家がいない」なんて言う人もいますけど、「本物の政治家」が必要じゃない時代のほうが、幸福なんだろうな、とは思いますね。