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2009年04月29日(水)
『ブラック・ジャック』が終わった日

『手塚先生、締め切り過ぎてます!』(福元一義著・集英社新書)より。

(巨匠・手塚治虫の代表作のひとつ『ブラック・ジャック』について。当時手塚先生のチーフ・アシスタントだった著者の回想です)

【昭和48年の10月、『ブラック・ジャック』はひっそりとスタートを切りました。壁村さん(壁村耐三・『週刊少年チャンピオン』編集長)が、当初は全4回ほどの予定で連載を依頼した、というのは有名な話ですが、実はその時、ひと足違いで「週刊少年マガジン」(講談社)からも、新連載の依頼が来ていたのです。これは翌年にスタートする『三つ目がとおる』になるのですが、どちらの依頼も富士見台の仕事場で行われたので、私は両作品の記念すべき誕生の場に居合わせることができたのでした。それにしても、もし講談社の依頼が2〜3日早ければ、『ブラック・ジャック』は「マガジン」に連載されていたかもしれません。
 さて、『ブラック・ジャック』の新連載にあたり、当時少年誌での執筆が減っていた手塚先生は非常に張り切って、作画資料の医学書を自ら用意したほどでした(ふつう、資料は他のスタッフが買っていました)。この時に先生が購入した高価な3冊の医学書は、連載中ずっと資料として重宝され、いわば作品の”バイブル”となりました。また医療機器等はどういうツテで手に入れたのか、病院向けのカタログを先生から直接渡されていました。
”病院”のような特殊な建物も、当然資料なしでは描けませんでしたので「建築」という雑誌の”病院特集号”を保存しておき、参考にしていました。するとある時、「私の近所の病院が作品に出てきてうれしかったです」というファンレターが来て、ニガ笑い……なんてこともありました。
 連載当時の画材についてですが、血の表現には太いマジックをよく使用していたのを覚えています。原稿に点々とマジックで黒を乗せていくのですが、これはもっぱら手塚先生の仕事でした。なにせ仕上げの段階でやる作業なので、アシスタントではおっかなくてとてもできなかったのです。
 やがて、作品の人気が出てきて連載が長期化するにつれて、作業の効率化も図られました。アシスタントたちは、手が空いた時間に、資料を元にいろいろな手術シーンの患部を鉛筆で下書きし、ストックしておきます。そして、先生がその中から使えそうな絵をチョイスして手を加え、作品中に使用するのです(とくに大きなコマでよく使われました)。これにより、手術シーンで一から資料を調べたり、写真を引き写したりする時間を大幅に短縮することができました。
 なお、毎回読み切りスタイルの『ブラック・ジャック』ですが、旅行前で描きためが必要な時などは、さすがの先生も編集者に「2〜3回の続きものにしてもらえないかなあ」と頼むことがありました。
 しかし、壁村さんはガンとして聞き入れませんでした。作品のためには、結果的にその方がよかったような気がします。】

(以下は昭和53年の『ブラック・ジャック』の連載が終了したときのエピソード。当時の手塚プロは、久々のアニメ(『100万年地球の旅 バンダーブック』)の制作で非常に厳しいスケジュールに追われていたそうです)

 【アシスタントたちは、講談社・錦友館・一橋寮……と、出版社や旅館を転々としながら、『未来人カオス』や『ブラック・ジャック』等を描いていました。そして、そんな8月12日のこと。長机を囲み原稿をやっている我々の部屋へ、急ぎ足で入ってきた手塚先生が、「やァみなさん、ゴクローさんです。今回で『ブラック・ジャック』は終わります。もうちょいですから頑張ってください」
 と言いながら、準備された席に着くなり、カリカリといつも通りペンを走らせ始めました。我々は「えっ?」と一斉に顔を見合わせましたが、先生のいつもと変わらない様子に、半信半疑のまま今の言葉を反芻していました。
 そして、その日の午後6時。「人生という名のSL」20ページが脱稿。あれだけの人気を集めた連載の、なんともあっけない幕切れでした。】

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 今日は「昭和の日」ということで、マンガ界の「昭和」を象徴する存在でもある手塚先生と『ブラック・ジャック』のエピソードを御紹介します。
 あの『ブラック・ジャック』は、当時少年誌では「過去の人」となりつつあった手塚先生が、『週刊少年チャンピオン』の名物編集長であった壁村さんから「短期集中連載」として頼まれた作品だったというのは僕も聞いたことがありました。それが、あまりに反響が大きかったために連載は続いていくことになったのです。

 この福元さんの回想を読んでいると、『ブラック・ジャック』を週刊誌で連載することの大変さが伝わってきます。「手術シーン」なんて、そう簡単に見られるものでもないし、当時は資料集めも並大抵の苦労ではなかったはず。
 でも、それを逆手にとって、「手術シーンのストックをあらかじめ作っておいて、使えそうな話ではそれを使う」という「効率化」を編み出したのは、「同じ絵のキャラクターを作品ごとに役割を変えて使いまわす」という「スターシステム」を生んだ手塚先生らしくもありますよね。
 大部分の読者には「こういう病気に対する、正確な手術シーン」をイメージし、誤りを指摘することは不可能ですから、それらしくて迫力があれば十分だったのでしょう。
 もし、手塚先生が「ディテールのリアルさにこだわるマンガ家」であれば、『ブラック・ジャック』を5年にわたって週刊誌で連載することは不可能だったはずです。
 そして、『ブラック・ジャック』をこれだけ長年愛される「名作」にしたのは、壁村編集長の存在も大きかったのではないでしょうか。あれだけの「物語」を毎週1つ作っていくのはかなり大変だったはずで、「2〜3回の続きものにしたい」というのはよくわかります。でも、もし壁村さんがそれを受け入れていたら、『ブラック・ジャック』は、次第に冗長になっていったかもしれませんし、「喫茶店や友達の家にあった単行本で偶然1つのエピソードを読んでハマってしまう」人も少なかったはず。ずっと「1話完結」であったために、新しい読者にとっては、どこからでも読めて、すごく敷居の低い作品になったと思います。「長編」を読んでみたかった、という気持ちもあるんですけどね。

 『ブラック・ジャック』の最終回が、スタッフにとっても突然やってきたものだった、というのは、この新書で初めて知りました。
 僕も『ブラック・ジャック』は全巻持っているのですが、あの「最終話」である「人生という名のSL」は、「1話完結」が大原則の作品であっても、全体の話の流れのなかで、なんだかものすごく唐突なエピソードのようにも感じましたし、「最終回」というよりは、「1話だけBJがみた夢をそのまま描いた」ような話で、その次の週にいつも通りのエピソードが載っていても違和感がない(それでいて「最終回」としても違和感がない)不思議な印象の作品でした。
 この話を読んでみると、あの「人生という名のSL」は、なんらかの理由で、手塚先生自身にとっても「突然の最終回」にせざるをえなかったのかな、という気がします。『週刊少年ジャンプ』の10回打ち切り作品ならともかく、長期連載された人気作品であれば、普通は「最終回までの流れ」を考えて、スタッフにも告知しておくものではないかと思うので。
 
 それにしても、この新書を読んでいると、手塚先生(とスタッフたちは、常に「連日の締め切り」に追われていて、「60歳の若さで亡くなられた手塚先生」も、その仕事の密度を考えると、「こんなにハードな仕事漬けの生活で、よく60歳まで体がもったなあ……」と思えてきます。