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2009年03月01日(日) ■ |
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伊集院光が語る「活字メディアと生のフリートークの共通点」 |
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『BRUTUS (ブルータス)』2009年3/1号(マガジンハウス)の特集記事「なにしろラジオ好きなもので。」より。
(TBSラジオで毎週月曜日深夜25時〜27時にオンエアされている「深夜の馬鹿力」のパーソナリティとして人気の伊集院光さんのお話の一部です。)
【実は、活字メディアであんまり上手にしゃべれた試しがないんで、最近はあまりお引受けしないようにしてきたんです。ましてや生放送の直前にラジオ以外の仕事をするなんて……今こうして『BRUTUS』のインタビューに応えてるのって、僕としては実に画期的なことなんで、変な気持ちです。 で、そういう状況に置かれてみてふと気づいたんですけど、活字メディアとラジオの生のフリートークってすごく対極にあるようでいて、結局のところ「編集している」って部分では共通しているんじゃないかと。 僕は『深夜の馬鹿力』って番組の冒頭で毎回フリートークをしてますけど、生放送でフリーとはいうものの、その場で思ったままを口にしているわけじゃない。だからといってあらかじめ考えてきているわけじゃないんだけど、言葉として発する前に、必ず頭の中で編集をしてると思うんですよ。 例えば「ビデオを燃えないゴミの日に捨てようとしたら、おじさんに”ビデオは燃えるゴミだ”って怒られて、新しいゴミの区分にかなりの違和感を覚えた」って話をする時に、「捨てようと思ったビデオがエロいビデオだった件を入れようか入れまいか」「入れるのならば具体的なタイトルまで入れようか」「それはかなり生々しいからやめようか」っていうたぐいの「編集」を自分の中で絶えずしてる。 それはひとつには、ディテールを逐一説明していたら時間がいくらあっても足りないってこともあるんですけど、言葉で縛りすぎるとイメージが限定されて、それがリスナーが想像しているイメージとズレて、かえって違和感を与えてしまうこともある。 「ブス」とだけ言っとけばリスナーは自分にとってのブスを勝手に思い浮かべて納得するのに、なまじ特定の名前を言ったりすると、「俺の好みと違うじゃん」「そいつは美人じゃねえか」「そいつ誰?」なんてことになって、肝心な部分が入っていかない。かといって、端折りすぎても伝わらないんですよね、これが。 ミスチルの桜井氏と対談した時、「曲を聴いて星空を思い浮かべてほしいと思ったら、星座の名前までは言わないほうがいい」って言ってて、「この言い方ができるから、ミュージシャンはモテるんだな」ってことは置いといて(笑)、ある程度は聴き手の自由な想像にゆだねたほうが思いがきちんと伝わる、同じ思いを共有できるってことです。 だからフリートークがどれだけ面白くなるかは、どこまで話をふくらませて、どこまで端折るかっていう「さじ加減」にかかってくる。ただ、それには僕とリスナーとの間に信頼関係がないと絶対駄目なんです。 だからこそフリートークの部分でも、「リスナーから来たハガキの行間も含めてキャッチして、それをちゃんとリリースしよう」っていうのが僕の目標です。まあうまくいったりいかなかったり、いかなかったりいかなかったりですけど(笑)。
(中略)
で、今僕が思うのは、ここいらで「ラジオのよさって何?」ってことを業界全体で一度腰据えて考えてみたほうがいいんじゃねえのってことです。 「今の若い世代に”ラジオって意外に面白い”って感じてもらえるものは何なのか?」とか、「ラジオCMのテレビCMにはない強みって何なのか?」とか、「夜中聴くのはきつい深夜放送世代の社会人にどうアプローチするのか?」とかを考える。 具体的には、有料で携帯電話配信をするならば、いくらで何分が最適なのか、高すぎれば聴かないし、長すぎれば、本来ラジオを聴く時間を犠牲にして聴いてしまうので本末転倒だし……とにかく考え抜く。 ラジオをまったく聴かない層を取り込むために、「ラジオを腋に挟んでおくと、猛烈な腋の臭いが消えますよ―」とデマを流すとか(笑)、何でもいいんですよ。】
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この伊集院光さんの『深夜の馬鹿力』は、この号の『BRUTUS』によると、「深夜帯で唯一、聴取率1%を叩き出すお化け番組」なのだそうです。 実は僕自身は、この番組が九州ではオンエアされていないので、上京した際断片的に聴いたり、伊集院さんのエッセイ集『のはなし』を読んだりしたことしかないのですけど。
「深夜帯での聴取率1%」=「お化け番組」というのは、ラジオが置かれている現状をよくあらわしているのかもしれません。 同じ時間帯でも、テレビ番組であれば、1%でこんなに評価されることはないでしょうから。 いまの中高生は、僕がそうしていたように、ラジオの深夜放送を聴きながら勉強しているのかなあ。
この伊集院さんのお話というのは、「ラジオ好き」だった僕にとって、とても興味深いものでした。 そして、「思いついたことを適当にしゃべっている」ように思えるフリートークについて、パーソナリティはここまでギリギリのところの「編集」をしているのかと驚かされました。 そこまでやるならキッチリ台本を作ってしまえばいいじゃないか、とも思うのだけれど、深夜ラジオのフリートークっていうのは、「いかにも台本通り」だと、かえってリスナーも盛り上がらないような気がします。深夜放送だと「今思いついたことをダラダラしゃべっているような感じ」のほうが、聴いてて楽しかったんですよね、なんとなく。 それに、パーソナリティのなかには、「具体的に名前を挙げる」ことによって「毒舌」でウケを狙うタイプの人もいるので、すべての人が、伊集院さんと同じような考えかたをしているのではないはず。
でも、少なくとも若いリスナーが多い深夜放送では、こういう「言葉を介してのパーソナリティとリスナーの想像力の綱引き」というのはけっこう大事な要素なのではないかと思うのです。 言葉っていうのは不思議なもので、テレビだと、「絶世の美女」を表現するために、美しい女優さんを連れてきても「イメージと違う」と思う人は必ずいるはずです。 ところが、ラジオや小説だと、受け手は勝手に「自分にとっての絶世の美女」を思い浮かべてくれます。 だからといって、あまりに「絶世の美女が……」なんて相手の想像力に任せっぱなしにしようとすると、「なんだこの幼稚な表現は……」としらけてしまうんですけどね。 そのあたりの「さじ加減」というのは本当に難しいのだけれど、それを実際に意識してしゃべっているパーソナリティは、そんなに多くはないような気がします。 長く続いている人気パーソナリティに「言葉の編集のプロ」であるシンガーソングライターが多いのは、彼らが「もともと人気者だったから」だけではなく、「言葉を通じて聴き手と想像力の綱引きをすることに慣れている」という理由が大きいのではないでしょうか。
僕は何年か前に大学の研究室で働いていたとき、「ラジオの面白さ」を再発見して、またラジオを聴くようになったのですが、「ラジオの魅力」っていうのは、僕にとっては、「人がしゃべっているのを聴いていられる楽しさ」なんですよね。 テレビはある程度集中して観ないといけないし、誰かの話を長い時間カットせずに聴かせてはくれない。 ラジオには、「想像力を刺激される」のと同時に、「誰かがそばにいてくれるような安心感」があるような気がします。 個人的には、やっぱり年齢的にも起きなければならない時間的にも深夜放送を聴くのは辛いので、有料でもいいからいつでも聴けるように配信してくれないかな、とも思うのですけどね。 ポッドキャストもだいぶメジャーになってきましたし(iPodの大きな容量というのは、ラジオ番組を録音して入れておくのにもかなり便利です)、これからは「パーソナリティがしゃべるラジオ番組」が見直されてくるのではないか、僕は、そんなふうに少し期待しているのです。 深夜放送っていうのは、あの時間に眠気と闘いながら聴くからこそ、いっそう面白く感じるものなのかもしれませんが。
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