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2009年01月22日(木)
テレビの世界での「放送禁止用語」の真実

『アナウンサーの話し方教室』(テレビ朝日アナウンス部・角川oneテーマ21)より。

(「真の意味の『放送禁止用語』とは?」という項から)

【テレビの世界には「放送禁止用語」というものがあると思っている人がいるかもしれませんが、実際にはそうした規定はありません。ただ、差別表現やワイセツな表現などは、放送上好ましくない言葉として留意しています。
 たとえば、ニュースなどで「辺鄙(へんぴ)なところで事件が起きました」と話したとしたなら、これは間違いなく配慮を欠いた表現です。「辺鄙」という単語は一般的な日本語ですが、人が住んでいる地域をそうした言葉で表現していいのかという問題になってきます。
 また、かなり以前のことでしたが、赤ちゃんが生まれたとき、あるアナウンサーが「はかない命の誕生です」と言ってしまって、周囲の者が青ざめたことがありました。本人にしてみれば、小さな命の尊さを表現したかったのでしょうが、「はかない」というのは、”あわくて消えやすい”という意味です。これでは、生まれたばかりの子供が間もなく亡くなることを予言しているようにも聞こえてしまいます。
 つまり、一般に言われる放送禁止用語に当たるかどうかということではなく、言葉の選択方法に問題があるわけです。
 たとえば私たちが「百姓」と言えば、お叱りを受けることもありますが、テレビに出演いただいた農家の方が、自分たちのことを「百姓」と言ってもそれは、その人たち自身にとって自然な言葉遣いであると同時に、自分の立場を謙虚に表現していることにもつながり、問題ないでしょう。しかし、そうではない第三者が同じ言葉を使った場合は、その立場にある人たちの気持ちを逆撫でしてしまいかねません。結局、誰かが傷ついたり、誰かが嫌な思いをするかどうか」ということにもっとも注意しなければなりません。
 そういうことを考えてみても、話している対象(相手や話題)に誠実な気持ちを持っていたなら、こうした問題は減らしていけるはずです。
 もちろん、誤解を生みやすい表現を使うのは避けるべきです。

 また、差別表現として取り上げられることが多い言葉に「片手落ち」がありますが、そうした障害を持つ人に対して使わなければ差別表現ではありません。「片手落ち」というのは”片方に対する配慮が欠けていること、えこひいき”を意味します。この言葉の語源は、人間ではなく「天秤」で、もともと差別的な発想はありません。従って、何かの事件に対する判断が公平であったかどうかを問うようなときに「片手落ち」と表現することに問題はありません。
 それでも、その言葉を聞いて気分を害する人がいるかもしれませんし、「アナウンサーのくせに差別用語を使っている」と思う人がいるかもしれません。そうしたことまで考えたならば、「公平な措置とはいえないですね」と言ったほうが無難です。

 放送にふさわしくない言葉かどうかというよりも、結局、そうした言葉を使った人の立場と気持ちが問われます。これは日常会話においても同様で、同じ言葉を口にするにしても、それがどういう気持ちで発せられたかによって、失言になるときもならないときもあるわけです。】

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 こんなふうに「テレビ朝日アナウンス部」の名前が冠されている新書に書かれていても、「本当は『放送禁止用語マニュアル」みたいなものがあるんじゃないかな……」と僕は想像せずにはいられません。

 まあ、そういうものが「マニュアル」として存在するかどうかはさておき、ここに書かれている「放送禁止用語の基準」というのは、考えようによっては、「●●●●はダメ!」って指定されているよりも、よっぽど基準が曖昧で厳しいようにも感じます。
 「辺鄙なところ」も「はかない命」も、要するに「それで傷つく人がいるかもしれないから」という理由で、特定の場所や人に対して使用すると「放送禁止用語」に入ってしまうようなのですが、それをつきつめていくと、公共の放送で何かを言うというのは、ものすごく窮屈なものになっていくでしょう。
 「背が高いですね」とか「頭いいんですね」なんていう表現だって、傷つく人が日本のどこかにいるかもしれないし。

 「片手落ち」の語源が、「天秤」だったとは僕は知りませんでしたし、それならば、「片手がない人に対する『差別表現』として言葉狩りの標的になるのはおかしいのではないか、とは思います。
 でも、「語源はそうかもしれないが、みんなそこまで言葉についての知識はないだろうし、そもそも、その言葉で傷つく人がいるかもしれないじゃないか!」と批判された場合、「元来、そういう意味の言葉じゃないんです」と弁解しても、受け入れられるのはなかなか難しいでしょうね。
 結局、公共の場での「表現」というのは、どんどん無難なほうへ向かっていかざるをえなくなるのです。
 それは、日本語という文化にとっては、すごく悲しいことのような気がします。
 「差別表現」や「ワイセツ表現」の境界というのは、そう簡単に線引きできるようなものではないですよね。そして、「卑猥な単語」「下品な言葉」だけが人を傷つけるとは限らない。

 「羊水腐ってる」発言で大ブーイングを浴びたアーティストがいましたが、世間にはあの発言を批判しながらも、柔らかい言葉で内容的にはもっと失礼なことを言っている人もたくさんいたわけで、あのバッシングも、「片手落ち」だったのかもしれません。