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2008年08月16日(土)
新聞記事の評価基準「アフガニスタン・ルール」

『ジャーナリズム崩壊』(上杉隆著・幻冬舎新書)より。

【前フリが長くなったが、話をアフガニスタン・ルールに戻そう。これはタイムズ本社に通っていた夏、本社の記者たちに聞いた話だ。
 1980年頃、ニューヨーク・タイムズとコロンビア大学では大いなる議論が起こっていた。1979年からのアフガニスタン戦争で、多くの記者が現地入りし、素晴らしい記事をいくつも出稿していた。政権の中枢に迫り、容赦ない筆致でもってアフガン政府や反政府軍の内部情報を伝えていた。それはタイムズ内でも高い評価を得、自然、ピュリッツァー賞に推す声が大きくなってきたという。
 一方で、同年、メトロセクションでも評判を呼ぶ連載キャンペーンが始まっていた。ニューヨークのある消防署の不正経費支出疑惑を追及する一連の記事に対しては、さまざまな論議を呼んだ。市民の反応は大きく、取材先からは大きな反発があり、訴訟も含めた激しい応酬が当局との間で起こったという。
 このふたつの記事については、タイムズ内でもどちらが優れているかと話題になった。そうしたジャーナリスティックな論争は、のちにアフガニスタン・ルールと呼ばれる次のような結論でもって終止符が打たれる。
 メディア界では、アフガニスタンの記事のほうが圧倒的に高い評価を受けていた。世界的にもそうだ。ところが、ニューヨーク市民の関心はそれほどでもない。むしろ、読者からは消防署の記事のほうがずっと人気があった。その温度差にタイムズ編集部は次のような結論を導く。
 アフガニスタンの記事は確かに優れてはいる。だが、おそらくアフガニスタン当地では誰も読んでいないだろう。アフガンでは英語を理解する人は確かにいるが、それはごく一部の限られたエリート層であり、そもそもそうした政府要人たちはみな戦闘中である。自国の新聞はおろか、米国の地方紙であるニューヨーク・タイムズを手に入れて目を通す暇などない。当然ながら、タイムズに対する反発は皆無であり、検証も不可能だ。
 ところが消防署の記事は違う。些細な事例まですべての市民が知悉(ちしつ)していることであり、実に多くの読者や当事者たちが共通認識でもって記事の細部まで読んでいる。当然、わずかなミスに対しても多くの反論が寄せられ、毎回さまざまな論争の材料を提供し続けた。確かに世界的な影響はなかったかもしれないが、現在進行形の身近な現象を切り取ることの困難さと重要性を知らせるに十分な記事だった。
 こうしてタイムズ内ではアフガニスタン・ルールという次のような評価基準が定まる。
 遠い外国の政府の記事は言語の違いなどから反論されにくく、また検証も困難なため、厳しい論調で書かれやすい。同じ理屈で、過去の出来事は現在進行形のものよりも、すでに情報源が存在しないことや再検証が難しいなどの理由で大胆に書かれやすい。また、読者や新聞の発行地から遠く離れれば離れるほど、関心も薄まり、検証も難しくなるため自由な筆致で書かれやすい。
 これらの現象から、最終的な編集権を持つニューヨーク本社から離れれば離れるほど、比較的取材は易く、取材対象に対しても厳しい記事になる傾向があるということを知ったという。
 逆に言えば、アフガニスタン・ルールとは、取材対象が新聞発行地に近ければ近いほど、取材や記事執筆に困難が伴うということをいうのである。
 ここまでの話はタイムズ本社で過ごした際、複数の人物から聞いた話なので、若干、事実関係にブレがあるかもしれない。だが趣旨は記した通りである。
 つまり、彼らの到達した結論は、一見大事に見えるアフガン戦争の記事も、卑近なニューヨークの消防署の記事も、それぞれが困難を伴って同じように苦労をもって取材し書かれたものであり、ともに敬意を払うべきものなのだ、ということなのである。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕はこの本で、はじめて「アフガニスタン・ルール」という言葉を知りました。
 ごく一般的な「ニュースの受け手」である僕が、この文章を読む前に、もし、「アフガニスタンの戦争に関する報道」と「地元の消防署の不正疑惑」の2つのニュースについて、「どちらが価値があると思う?」と問われたとしたら、まちがいなく、「そんなの、アフガニスタンの戦争のことに決まっているじゃないか。『世界レベルの問題』だし、これを報道しているジャーナリストたちだって、命がけでやっているんだから」と答えていたと思います。地元のニュースのほうに「個人的な興味」があったとしても、それと「客観的にみたニュースとしての価値」は別物だと考えたはずです。

 僕がこの「アフガニスタン・ルール」の話を読んでいて驚いたのは、アメリカのジャーナリズムの世界には、こういう2つのニュースの価値を真剣に「比較」する姿勢がある、ということでした。日本だったら、「まあ、『みんなちがって、みんないい』、じゃないか」というようなお茶の濁し方をされて、次の話題に移ってしまいそうですよねこれ。内心では、「そんなの、世界的なニュースのほうが『偉い』に決まっているじゃないか」と思いながら。

 そして、この話を読んでいて痛切に感じるのは、「アメリカでは、『ニュースを伝えること』だけではなくて、そのニュースが『受け手にとって意味があること』『受け手によって検証されること』もニュースの価値に含まれると考えられている」ということです。
 いや、「ニューヨーク・タイムズで報道されること」には、やはり世界的な影響はあると思うのですよ、彼ら自身は「アフガニスタンの現場の人たちには、読まれないし、反響もない」と謙遜していたとしても。

 もちろん、これが報道の現場の「本音」かどうかは僕にはわかりませんし、実際は、それでも「世界を飛び回るジャーナリスト」のほうに憧れる人が多いのだろうな、とは思います。この「ルール」の存在理由も、こういう「建前」をつくることによって、地元で地道に取材している記者たちのモチベーションを高めたい、という意図だってありそうです。
 
 それでも、これは「受け手の存在を重視した報道」において非常に大事なことですし、ニュースの受け手の側にとっても、この「アフガニスタン・ルール」は、知っておくべき考え方であることはまちがいありません。
 受け手側からみると、「海外の大きなニュースというのは、そのスケールの大きさだけで圧倒されてしまいがちだけれど、嘘や偏見が含まれやすく、それが検証される機会も少ない」のです。そして、「取材対象に対しても厳しい記事になる傾向がある」。

 これは、マスコミだけではなく、ブログにもあてはまる「ルール」です。
 僕も書く側として、「自分から遠い人ほど、厳しいことを書きやすい」という実感はあるんですよね。
 匿名(ハンドルネーム)で書いているとはいえ、日本の総理大臣の悪口は書けても、職場の同僚の悪口は書きにくい。中国政府は批判できても、地元の町内会の運営や会社の勤務状況については批判しにくい。
 まあ、ブログの場合は、あんまり身内の悪口ばっかり書いても、読む側も何のことだかわからないし、不快になるだけなのも事実なんですけどね。