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2007年12月07日(金)
「本は捨てられない」という微妙な感情

『本棚探偵の回想』(喜国雅彦著・双葉文庫)より。

(「単行本のためのあとがき」の一部です)

【昔ほど、素直に「古本古本」と声高に言えなくなっています。ここに書いたとおり、出版不況の一因に「新古書店」の存在があげられているからです。僕の場合は「新刊書店で売っている本を安く買うため」ではなく「絶版になった本を見つけるため」に、そこを利用しているのですが「ではそこで新刊を買ったことは一度もないのか?」と問われれば「それはある」と答えざるをえません。「でもそれは昔のこと。今ほど状況が切迫していなかったから」という言い訳は、遠い外野から見れば意味を持ちません。あとは自分なりにどう折り合いをつけていくかです。
 そこでこうすることにしました。「とりあえず、新古書店には本を持っていかない」
 他で1000円で売っている本が300円で売っていたら、欲しくなるのは人情です。というか、そんなに欲しくなくても、つい買ってしまいます。そこで買った人はこう思います。
「700円儲けたぜ」
 この「儲かった感」が曲者なのです。これがあるから、人はギャンブルに手を出すし、大安売りには並んでしまいます。本当に欲しかったものかどうか、差し引き儲かったかどうかは問題になりません。儲かった感が残ればいいのです。そこで、新古書店について考えます。買うときは儲かったと思うけれど、売るときはどうでしょう。指が千切れるほどの重い荷を持っていって、買い取ってもらい「儲かった」と思うことがあるでしょうか? ほとんどの場合「え、たったそれだけ?」と思うはずです。
 小一時間かけて本を選んで、汗を流して、ガソリン代を使って、手にしたお金。時給に換算したら、幾らになるでしょう。そこで「儲かった」と思う人は少ないに違いありません。ではなぜ、人はわざわざそんなことをするのでしょうか? そこには「儲かった感」以外に重要なポイントがあるからだと思います。
 それは「本は捨てられない」という微妙な感情です。
 本が好きな人なら判るでしょう。本は物であって、物ではないのです。この気持ちがあるがゆえに、出版業にかかわっていて、新古書店の根絶を願っている人でさえ、意外に平気で新古書店に本を売ります。本が好きだから、本を邪険にできないから、捨てることができないから、です。そこが店の思うつぼです。環境保護という問題も、店側に味方しました。捨てるぐらいなら、ゴミになるなら、誰かの元に行ってほしい。そういう善意の心が結果的に某チェーン店に本を集めているような気がします。でも考えて下さい。すべての本が第二の所有者を持つワケではありません。というか、そんな幸福な本はわずかにすぎません。大部分の本は結局は資源ゴミとして回されるのです。自分が出すか、店が出すかの違いだけなのです。だから本を捨てることに臆病になる必要はないのです。
 というワケで、僕はいらなくなった本は資源ゴミに出します。表紙を破って。状態の良い本は回収業者が集めて、やっぱり新古書店に持って行きます。だから僕は表紙にカッターを入れます。売り物にできなくするために。それはとても悲しい行為です。だから思います。せめて自分の著作だけは「もうこの本いらないや」と思われないように、少しでも面白くしよう、と。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この文章を読みながら、僕は岡田斗司夫さんが、『いつまでもデブだと思うなよ』の中で、「もったいないから目の前の食べ物を残さないで全部食べてしまうという人がいるけれど、一度自分が口をつけたものがアフリカの人に届くわけではないのだし、その食べ物の行き先が『自分で食べてさらに体を害する』のと『捨ててしまう』の二者択一しかないのなら、後者のほうがまだ『合理的』なのではないか?」と書かれていたことを思い出しました。まあ、古本をブッ●オフに売っても売った人が何か困るのかというと、そういうわけでもないどころか、幾ばくかのお金ももらえるわけですから、全く同じ話というわけではないんですけど。

 ただ、本当にすべての読者が「新古書店でしか本を買わない」というようになってしまっては、いつかは新しい本が出なくなってしまいますよね。そして、どんどん古くなっていく「昔出た本」が新古書店で循環されていくだけ、と世界になってしまう可能性だってあるわけです。一介の本好きでしかない僕にとっては実感が湧かない話なのですが、出版業界にとっては、「売れそうな本しか出せなくなってきている」のは確かなようです。「優れた作品を書いても食えない」ということになれば、作家や漫画家の質も落ちていく一方でしょう。

 しかしながら、僕もやっぱり「本を捨てられない人間」なんですよね。
 本を傷つけるのはしのびないし、さりとて、これ以上、本に部屋を占拠されたら生活するためのスペースが無くなってしまいます。引越しをするときなどは、まさに「本地獄」。引越しセンターの屈強な人々が本のギッシリ詰まったダンボールを持ち上げようとして苦悶の表情を浮かべているのを見るたびに、申し訳ないなあ、と思うのです。
 それで最近は、某ブッ●オフに本を持っていくことも多くなりました。
 実は、ブッ●オフで買い取ってもらうメリットというのは、「お金がもらえる」だけではないんですよね。
 都会ではどうかわからないのですが、田舎では、「多量の本を一度に捨てる」のは、けっこう大変。引き取ってくれる日は2週間に1回しかないとか、かなり遠い収集センターまで運んでいく必要があるとか、いろんな制限があります。
 ところが、ブッ●オフは、持ち込み(あるいは、出張買い取りを依頼)さえすれば、収集日じゃなくても、気軽に本を引き取ってくれる(どころか、お金まで払ってくれる)のです。
 それでも本を「捨てる」ほど、僕はブッ●オフを嫌いにはなれません。

 喜国さんが、「出版する側の人間」として、愛する本に自ら傷をつけてまで「新古書店に抵抗する」という姿勢はすごいと思います。でも、読書家の大部分である、「本は好きだけど、そんなに経済的な余裕もないし、新刊書店に操を立てる必要もない人」たちには、たぶん、そこまで「愛する本に対して、自分でけじめをつける」覚悟はないはず。「捨てられた犬がどこかで幸せになる可能性はものすごく低い」ことが頭ではわかっていても、捨てるのではなく自分で保健所に連れて行って「決着をつける」人が少ないのと同じように。
 そもそも、本をブッ●オフに売るのに、「飼い犬を捨てる」ような「罪悪感」を持つ人のほうが、圧倒的に少数派でしょうしね。

 「自分の読んだ本が、知らない誰かの手に渡って、その人を感動させる」というのは、新古書店に本を売る側のひとつの「ロマン」です。
 でもまあ、そういうのって、「少しでもお金にしたい」とか「ゴミの日に早起きして出しに行くのがめんどくさい」という自分の欲望や怠惰さに対するカモフラージュ、という面もあるのかもしれませんね。

 面白い新刊書が無くなってしまうのは困るんだけど……と思いつつ、結局ブッ●オフに本を多量に買い取ってもらっている僕のような「本好き」が、きっと、ブッ●オフを支えているんだろうなあ……