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2007年10月19日(金)
本田宗一郎さんの「遊びの哲学」

『本田宗一郎の見方・考え方』(梶原一明監修・PHP研究所)より。

(「本田宗一郎の言葉」という項から。文・梶原一明(『本田宗一郎の名言』『本田宗一郎の哲学』などより引用・抜粋されているそうです))


「遊ぶことは相手の身になること」

 遊びに行くのもモテに行くことだと私は信じている。縄のれんや、煮干をかじって立ち飲みする酒屋の店先に行くのだって、どこかしらモテるために行くのである。縄のれんのおばちゃんや、酒屋のおっさんが、笑顔を向けて歓迎し、互いに気の合うことが嬉しいのである。
 酒を飲んで楽しいのは、私にとってなんのかざりもなく相手と共感できるときである。そのためによく遊ぶのである。私の人生は仕事で明け暮れはしたが、遊ぶのもまことによく遊んでいる。これは私のささやかな人生哲学である。相手の身になることの初歩なのだ。カネを出すのはオレだというので相手を無視したところで、そこになんの楽しさがあるだろうか。
 遊びというのは、大切なものである。遊びの下手な人間は人にも好かれないし、商売もできない。またとない時間を、その場にいる人たちとみんなで、より楽しく、よりほがらかに、共感の笑いとともにすごさずしてなんの遊びだろう。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕は自分のことを「遊び下手な人間」だと思っているのですが、この本田宗一郎さんの言葉にはとても感銘を受けてしまいました。
 僕にいつも、「女の子が接客してくる店」で、楽しそうに盛り上がっている同僚や上司に対して、「ふん、お金でチヤホヤされたってさ……」などと内心毒づきつつ、自分の隣に座っている女の子はさぞかし面白くないんだろうな、と悲しくなってしまうんですよね。いや、そこでお金使うんだったら、新刊書か新作ゲーム買いたい……とも思いますし。

 でも、『世界のHONDA』を創りあげた本田宗一郎さんの、この「遊びの哲学」を読むと、本田さんは、「遊ぶ」というのは単なる「気分転換」ではなくて、「相手の身になることの初歩」だと考えていたようです。
「オレは客なのに、なんで女の子に『面白い話してよ〜』なんて言われて、自分から話さなきゃいけないんだ!」と腹を立てるのではなく、「せっかくこの店に来たのだから、自分から面白い話をしてでも、一緒に楽しんだほうが得だし、コミュニケーションの練習にもなる」ということなんですよね、本田さんにとっては。
 たしかに、そう言われてみればその通りで、女の子が接客してくれる店で「うまく遊んでいる」人は、仕事においても接客が上手いような気がします。本人にそういう自覚があるのかどうかはさておき、「うまく遊べるかどうか」というのは、「他人とのコミュニケーションの技術」と深く関連しているんですよね。
 それにしても、「女の子がいる店」ならともかく、「縄のれん」や「立ち飲みの酒屋の店先」でさえ、「モテに行く」という感覚は凄いです。
 「カネを出しているのはオレだ」「客なんだから、サービスしてもらうのが当たり前」「店員は、客に言われたことだけキチンとやってくれればいい」というのが現代の一般的な「客の論理」ではないでしょうか?

 しかしながら、本田さんは、「どうせカネを出すのなら、自分だけじゃなくて、周りの人や店員さんも喜ばせたほうが楽しいじゃないか」と考えていたわけです。これぞまさに「サービス精神」!

 本田さんは、「とにかく周りを喜ばせるのが好きな人」だったのかな、という気がしますし、そういう性格こそが、本田宗一郎さんの「誰にもマネできない『天賦の才能』」だったのかもしれませんね。