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2007年03月22日(木)
「将棋がスポーツであること」の一つの根拠

『大山康晴の晩節』(河口俊彦著・新潮文庫)より。

【棋士がいちばん勝てるとき、すなわちピークは25歳くらいである。加藤一二三は18歳でA級八段になり、中原誠は24歳で名人になった。史上最年少名人の記録を作った谷川浩司が名人になったのは21歳。羽生善治は24歳のときである。
 ピークはだいたい30歳くらいまで維持できるが、それからはほんの少しずつだが、棋力が落ちはじめる。そして40歳を過ぎるとガクンと落ちる。あるとき私はそれに気が付いて、男の厄年は本当だ、と思った。A級中堅で活躍していた棋士が、40歳前後になると、B級1組に落ちる。それまでの力を私達は覚えているから、1年でまたA級に戻るだろうと見ていると、さらにB級2組に落ちてしまう。そんな例は、大内延介、板谷進、桐山清澄、勝浦修、その他たくさんある。さすがにB級2組の格ではないから、B級1組にすぐ戻るが、A級までは戻れない。
 50歳ともなれば、どんな棋士でも衰えがはっきり見てとれるようになる。大山(康晴)にしても名人位を失ってからは、奪い返すことはできなかった。米長邦雄は49歳11ヶ月で初めて名人になったが、これは最年長名人として破られることはあるまい。この米長にしても全盛期は30歳から40歳のころだった。中原も50歳になると、A級を維持するのが苦しくなった。かつて大山は「毎年落ちそうになるようなら、もう長いことはありません」と言ったが、そういうものなのだろう。米長も、名人位は1期だけで羽生に奪われ、54歳のとき、A級から落ち、順位戦から引退し、フリークラス棋士となった。中原もやはり51歳でA級から落ち、二年後、B級1組でフリークラス棋士となった。
 中原、米長は、江戸時代の天才を含めて歴代十傑に入る大棋士だが、それと比べると、大山の強さがはっきりする。50歳から60歳になるまで、A級から落ちそうな気配はまったくなかった。それどころか、東京将棋会館、関西将棋会館を建設するときは、先頭に立って募金活動を行うなど、精力的な働きぶりは超人的でさえあった。】

参考リンク:順位戦について

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 プロ棋士の「クラス分け」である順位戦のシステムについては、参考リンクをごらん下さい。まあ、要するにプロ棋士の世界というのは、名人を頂点として、その下にリーグ戦でトップになれば名人に挑戦できる「A級」(定員10人)、そしてB1級、B2級……と、明確な階級付けがなされている、ということなのです。

 僕は将棋の世界にはけっこう興味があって、子供の頃は「将棋入門」を読みながらひとりで詰め将棋を解いたりするのが好きだったのですが、この文章を読んで最初に思い出したのは、小学生くらいのときに読んだ将棋の本に書いてあった「将棋はスポーツ」という言葉だったんですよね。それを読んだときには、子供心に、あんな駒を動かすだけのゲームの、どこが「スポーツ」なんだよ……と大いに疑問だったのですけど、この「年齢と実力の相関」というのは、まさにプロスポーツの世界のもののように感じられます。【棋士がいちばん勝てるとき、すなわちピークは25歳くらいである。】【ピークはだいたい30歳くらいまで維持できるが、それからはほんの少しずつだが、棋力が落ちはじめる。そして40歳を過ぎるとガクンと落ちる。】大部分のプロ野球選手、プロサッカー選手の「年齢と能力の変化」って、こんな感じですよね。羽生善治さんが7冠を達成したときに、世間は「若き天才」と彼を賞賛しましたが、世間一般では「若造」と呼ばれる年齢の羽生さんも、棋士として名人になった年齢は、けっして、突出して若かったというわけではないのですよね。むしろ、頂点に達するべき人のほとんどは、そのくらいの年齢で頭角を現していたのです。

 僕の子供の頃のイメージとしては、「将棋は体力もそんなに使わないし、経験を積んできたベテランのほうが強いのが当たり前」だったのですが、実際の将棋の世界では、けっしてそんなことはないようです。棋士というのは、経験だけでは勝つことができない、本当に厳しい職業なのだな、とあらためて思い知らされます。何時間も将棋版の前で集中力を保つというのは、見た目以上に気力・体力を消耗するのでしょうね。

 昨日(2007年3月21日)、渡辺明竜王とコンピューター将棋の最強ソフトと謳われる「ボナンザ」が公開対局を行い、112手で渡辺竜王が勝ちました。今回の対局に関しては、渡辺竜王が「苦戦」したというよりは、「ボナンザ」が「予想以上に善戦した」という感じなのですが、オセロやチェスの世界ではコンピューターが人間の名人を打ち負かしていることを考えると、いつかは「将棋の名人がコンピューターソフトに負けるとき」が来るのでしょう。

 僕としては、その日が来るのが少しでも遅くなるのを願ってやみません。
 一昔前までは、「まともに相手をしてくれる将棋ソフトが出る日はくるのだろうか?」と思っていたはずなのに。

 まあ、スポーツの魅力が「記録」や「結果」だけではないように、将棋の魅力も、それを指している「棋士」たちの人間ドラマに拠るところが大きいのですけどね。